戦後まもなく、教祖が吉住慈恭さんの家を見にいらして、バカに気にいって、『だれが設計したんだ』ということで、それがきっかけで、私は教祖のお宅に出入りするようになりましたした。ですから、私を教祖に引き合わせたもとは吉任さんなのです。
そして、箱根観山亭の裏にある風呂場の設計を頼まれたのが始まりで、それから道場(日光殿)の設計をしました。
設計に当たっては、教祖の方から、特に注文をつけられるということはありませんでしたが、ああいった頭のいい方ですから、私がやったあと、それをすぐ研究して吸収されるのです。『こうやった方がいい。なるほど、この方がいいな』と、すぐ覚えてしまうのです。カンのいい人で、この点はやっぱり偉かったと思います。
そんなわけで、救世会館の設計のときは、教祖は大分私にご質問になりました。『こういうことはどうだ』『あれはどうだ』と言って、私から大分タネを仕入れておられました。そして、この建物は、ご自分で設計されたものなのです。
失礼な言い分かもしれませんが、建築の専門家でもないのに、あれだけのものを造られたということは、たいしたものです。大体、建築などというものは、玄人にしても、やってみなければわからないものなのです。造ってみて、あそこが悪い、ここがまずいとわかるんです。それを、なんにも知らない人が、あれだけのものを造られたということは、全くたいしたものです。
それは、教祖が、創意──オリジナリティをもっておられ、それに加えて、その創意に対する自信もおありだったので、あれだけのものが出来たのだと思います。やっぱり教祖には、“人のまねはしたくないという考えがあり、“なんでも自分自身の考えで行こう、人まねはいやだ”という強い気持がおありでした。
そういう点で、教祖が物を見る目というものは、たしかでした。普通人のようにフラフラしていないのです。
あの会館へ行く道も、自分で造られたんですが、設計図もなければ、測量も何もしてないのです。
われわれに言わせれば、ちょっと勾配が急で、もうすこし緩くつければいいと思いましたが、測量をやらずに造られたのですから相当なものです。それこそステッキ一本で、“ああせい、こうせい”と指図してやったのですから、それにしてはよくあれだけ出来たものです。要するに、目が肥えて、その日だけでやりとげたのだと思います。その点、目は実にたしかだったわけです。
というのも、若い時から美術が好きで、それによって養われていたのでしょう。目に栄養が行き亘っているんです。それが、建築や造苑にも現われるのです。
内容から言っても、箱根、熱海美術館だけのものは、他にそうはありません。五指のうちにはいると思います。最近は美術館ばやりで、あちこち出来ましたが、あれだけ早くから目をつけられ、また、あれだけ名品の集まっているところは少ないてしょう。
さて、人としての教祖ですが、お会いしない前は、教祖はもっと恐い人で、体裁をつくろっている人かと思っていましたが、お会いして全然見当ちがいでした。
教祖は、江戸っ子のいい面をもっていました。私も江戸っ子ですから、その悪い面を知っていますが、教祖はいい面をもっておられました。
江戸っ子というのは、たいてい、あきらめがいいんです。ところが、教祖はあきらめないのです。それどころか、前へどんどん進んで行くところがありました。こういうことは、普通の江戸っ子にないところです。
そして、教祖は、グチがきらいでした。過去のいやなことは、一切しゃべらない。その点、私は偉いと感心しています。何度か会っても、グチを聞いたことがないのです。過去を振り返らない、先へ先へと進もうとする──これはなかなか出来ないことです。私なども見習わなければいけないと思いました。
いつか、ある問題があって、教祖が留置されたことがありましたが、私はそのすぐあとでお目にかかりました。そのときも、グチっぽいことは何も言われず、冗談ばかり飛ばしておられたが、ああいうところは全く偉いことです。
暗いことは、みんな頭から忘れてしまおうとしておられました。私などもおつき合いをしていて、いろいろのことがありましたが、教祖はそういういやなことは、忘れよう忘れようとして、決してグチは言われなかったばかりでなく、普通の人が考えるよりも、さらにひとつ先を行こうとしておられたと思います。それも、出来る出来ないということを念頭に置かないで、やっておられたようです。そういう大きな自信をもっていられました。
教祖という方は、ザックバランで、野人としての感じもありましたし、おしつけがましいことがきらいでした。これも江戸っ子のひとつの面で、自分の偉さをおしつける、あるいは偉ぶるなどということは一切なさいませんでした。これは、宗教家としてなかなか出来ないことでしょう。
非常に庶民的で、権力をカサにきる人をきらわれました。これも江戸っ子の証拠です。風呂から上がって、ゆかたがけで、巻き帯でおられるところなど、どう見たって教祖らしくありません。普通なら、もっと勿体ぶるでしょう。
それから、あのくらいものを即決する人も、すくないでしょう。美術品の場合など、普通ならこわくて、あれほど早くは決められないものです。それで、“一応考えておこうか”というところですが、教祖にはそんなところは全くありませんでした。
ですから、グズグズしていることがきらいでした。しやべり方も、モソモソしているのなんかきらいでしたが、まどろっこしくて聞いていられないのでしょう。従って、江戸っ子の短気で、めんどうくさがり屋のところもありました。淡白なところもあったが、美術に関してはひとつの執念をもっておられました。こういうねばっこさだけは、江戸っ子的でなかったと思います。
大体、江戸っ子というのは、宗教家には向かないもんです。いままでの宗教家を見ても、たいてい地方の出です。それなのに、教祖は江戸っ子で、しかも下町のゴミゴミしたところに生まれて、そしてあれだけの宗教家になったというのは、非常に異数のことだと私は思っています。
しかも、あのように淡々としていて、宗教家としては非常に珍しい素質の方です。もう二度と、ああいう宗教家は出ないのではないかと思っています。
教祖はよく、『自分がものを計画した場合は、それを倍に考えると、ちょうどい
い』と言っておられました。要するに、ものを大きく考えよう、大きく考えようとしておられたのです。つまり、こずまないように、こずまないようにしていました。貧乏くさいのがきらいで、いつも夢をもっていました。──普通、あの年令になると、もうなくしてしまうものなんだが──教祖のは、どんな大きな夢だか知りませんが、とにかく亡くなるまで持ちつづけた人でしょう。
まあ、教祖は、やりたいことをやりたいだけやって、そして、とうとうやり遂げられたのですから、倖せだったと思います。それに、奥さんの内助の功も、ずいぶんあずかっていたと思います。奥さんが、泰然と構えていらっしゃったから、うまくいったのです。普通の奥さんだったら、ちゃんと受けとめられません。その点、実に偉い奥さんだったと思います。
結局、教祖という人は、宗教でも、美術でも、人が三十年、四十年かけてやることを、二十年ぐらいでやられた方と言えます。