一分一秒の無駄もなく

 明主様がほんとうに一生懸命でいらしたことは、どうかしてこの救いの仕事を世の中に発展させたいと、一刻も惜しんで働くということでございました。

 それこそ、みなさまご存じのように、朝起きられてから寝まれますまで一分の無駄もないくらい、ぎっしりと時間割を組まれて働かれたのでございます。

 また、この時間割が、明主様のは独特で、ラジオに合わせてあります。ニュースとかニュース解説とか、そういう世界の情勢を知るということを非常に大切に思われまして、そのような大切なお時間は、お風呂とか、ご調髪とか、お食事など、絶対他人に邪魔されることのないお時間に組まれて、必ず聞かれるようにしていらしたわけでございます。

 散歩なさいますのにも、携帯ラジオを持って、お供の人が後からついていらっしゃいました。碧雲荘の庭の隅にお茶室を造られたときなども、必ずラジオを聞きながら見回りに行かれますものですから、しまいにはラジオの音が聞こえてきますと、〝そら! 明主様がいらしたぞ″というので、とたんに大工さんの働きぶりが違うという具合で、まるで猫の鈴であったようでございます。

 そのくらいラジオをお聞きになりましたが、これも、いま申しましたようにラジオだけ聞くことはありませんで、必ず、他の仕事をなさりながらお聞きになったわけでございます。夜分など書きものとか、美術書の勉強をなさいましたが、それも疲れた肩を揉ませながらとか、新聞を読ませながらといった具合で、いま思うと、明主様も徹底的なながら族でいらしたわけでございます。

 明主様は徹底的に時間の無駄をはぶかれ、一日の時間を有効にお使いになりました。また、そうしなければ、とてもご自分の大きなお仕事を達成できないと思われたのでございましょう。人に会われましても、ただボンヤリ雑談されるということはなく、積極的に人の話を聞かれ、また、テレビとか、ラジオとか、文明の利器を大いに利用されまして、新知識の吸収につとめておられたわけでございます。みなさまは、明主様が才能があって、これだけの救世のお仕事をなさったように思っていらっしゃるかも知れませんが、けっしてそればかりではなく、あれだけいたしましたならば、たいていの人は相当なところまでゆけるのではないかと思うぐらい、積極的、能率的に、一生懸命に働かれたわけでございます。

 私どもは、明主様を神格を持たれた『おしえみおや』としてあがめたてまつるだけではなく、このような一個の人間として、ご自分の道を情熱と信念をもって、力のかぎりつくされた、そういう明主様でありますことに、心からの尊敬の念をもちまして、私どもが人生を歩んで行くうえのお手本とさせていただきたいのでございます。

 とかく教祖というものは、年が経つにつれ、また尊敬のあまり、次第々々に神格化して、修身の教科書のような固苦しい人間にいたしがちでございますが、それではもうあの明主様ではなくなってしまい、私どもは身近な親しみを感ずることができなくなってしまいます。もちろん、明主様は霊的に特別な面もおありでございまして、私どもと同一視することはできませんが、しかし、いわゆる神憑りとしてこのお道を開かれたのではなく、普通の人間として、早くから人生の荒波にもまれ、貧困や病気、失意や失敗とたたかって、人としてのあらゆる喜び、苦しみ、辛酸を経験されて、そのあげく救世のお仕事にご自分の行くべき道をみいだされたのでございまして、ここにこそ、明主様の偉大さがあり、私どもの倖せがあると思うのでございます。

 

思い出(教主)