最近、若い人たちの死亡する原因の中で、非常に高率<こうりつ>を占<し>めているのは自殺<じさつ>だということを知りまして、実に驚<おどろ>いたのであります。驚くとともに、なんという悲しい現象<げんしょう>であろうかと、暗澹<あんたん>たる気持になったのであります。これから人生の花を咲かせようという青少年が、病気で亡<な>くなるだけでも実にいたましいかぎりであるのに、それが自分から尊<とうと>い生命を絶つなどということは、もう悲しみをとおり越して、言うべき言葉を知らないのであります。
自殺という行為の善悪、これは別としまして、なぜそうしなければならなかったかということは、深く深く当の青少年の立場にたって、大いに考えてみなくてはならない、大きな問題だと思うのであります。
この若い人の自殺の原因といいますと、まず、相思<そうし>の人と添<そ>えない、また、辱<はず>かしめられたといった原因もありますが、それよりもっと突<つ>きつめた虚無感<きょむかん>、そういうものに堪<た>えられなくなったといった、思想的な原因が大変多いのであります。生活難による一家心中などというような場合ですと、外部の事情<じじょう>が大きな原囚でありますから、あるいはどうしても死なねばならなかった、といえるかもしれません。しかし、若い人の立場はそんな突きつめた生活難というものはないのですから、当人の心の持ち方ひとつで、これはどうにでもなる問題ではなかったかと思うのであります。人生が虚無であるか、ないかというようなことが、二十歳<はたち>やそこそこの若さではとうてい理解<りかい>できるものではありません。しかし、当人にしてみればずいぶん迷<まよ>いに迷い、考えに考えて、そのあげく、そうなったのでありましょう。これを一人前<いちにんまえ>になった大人<おとな>の側<がわ>から考えますときは、これはいかにも浅薄<せんばく>であり、思<し>慮<りょ>の足りない行為だと言わなければならないのであります。
若い人というものは非常に感受性<かんじゅせい>に富んでおり、一本気<いっぽんぎ>で、とかく反省の余裕<よゆう>といったものがありません。純真<じゅんしん>といえば実に純真でありまして、その純真さが、また、青少年の一番尊いところであります。それだけに、その一本気な純真さを健全<けんぜん>な方向へ導<みちび>いていくということが、何より大切なことだと思うのであります。
では、どうすればこれら若い人たちを虚無に陥<おちい>らないように導くことができるかというと、それはもはや学問ではだめなのであります。もちろん、金<かね>でもだめであります。どうしても宗教心を芽生<めば>えさせるということ以外に、青年の魂を救う道はないのであります。
現代の若い人の中には刹那主義<せつなしゅぎ>の人もいますけれども、これをよくみますと、それはほんの上<うわ>っ面<つら>なのであります。いわゆる悪をてらっているようなふうにみえますが、ほんとうは戦後の青少年というものは、非常に真面目<まじめ>な人が多くなってまいりました。いずれも真剣<しんけん>であります。
真剣だからこそ、自殺が青年の死因の高位を占<し>めるということも考えられるのであります。いってみれば、青年はどうしていいかわからなくなって、そして、死んでしまうというのではないかと思うのであります。だとするならば、これは人生にはっきりした指標<しひょう>が出ておらないんだということが、最大の原因であろうと思います。これは先輩者<せんぱいしゃ>である大人たちが、まず、大いに責任を感じなくてはならないと思うのであります。