「それは明主様に対し誠に申しわけないことだから、全部私の方に課税するように査察官にお願いしてください。神田さん、このことはあなた一人の胸におさめて決して公言しないように。いいですね」
「しかし渋井先生、それでは先生一人が悪者になってしまうではありませんか」
「これも大事な御用なのですよ。ですからそういうことは問題ではありません。神田さん、たいへんでしょうがよろしくお願いします」
これは總斎と神田宗次との会話である。總斎は、今教団にかかっている脱税疑惑の責任を自分一人でかぶろうとしている。この件に関して、總斎と「日本五六七教会」の経理に特に問題はなかった。それを組織ではなく個人として責任をとろうというのである。
昭和二十三年十一月のことである。「日本五六七教会」が「日本観音教団」から独立してまだほんの間もない頃、大蔵省が脱税容疑で「日本五六七教会」の五ヵ所の施設を家宅捜索した。
教団が設立されて日も浅く、組織もまだ整わず、経理に関してもまだ経験が浅い事務局にとって、一体何事が起こったのか事態の把握もできなかった。加えて、「五六七会」が「日本観音教団」の中で飛び抜けて成長したという経緯で「日本五六七教会」が分離したばかりである。
教団は弁護士に依頼し、問題処理に当たらせた。調査の結果は、側近者が担当している経理事務に不備があり、記載漏れが脱税の嫌疑の原因と判明した。この当時、すでに箱根・神仙郷の造営工事が始まっており、その御用のための多額の費用が支出されていた。教団が急成長を続ける中で、事務上の処理能力を超える多額の献金御用があったため、このような事態を招いたのである。 しかし、脱税容疑の査察は、この時代の宗教法人制度の問題も遠因となっている。先にも触れたように、宗教法人令の準則主義によって簡単に宗教法人が設立できたために、宗教法人を脱税の隠れ蓑にする目的で設立する団体があとを絶たなかった。世間では宗教法人に対する風当たりが強く、どこか一つの宗教団体をみせしめとして脱税を摘発することが、大蔵省、政府当局の思惑としてあったことも想像に難くない。このように考えれば、この時代「日本観音教団」「日本五六七教会」は、急成長し献金奉仕も著しかったことから政府当局の標的とされたとも考えられる。
ところで、この脱税疑惑による査察に対応した神田の話がある。神田によれば、この当時、毎月「日本五六七教会」から多額の献金が明主様の許に届けられていた。これを明主様のお手許金とするのだが、その際にこのお金を「仮払金」として扱った。明主様側の担当者から正式な領収書、使途明細書が後日提出され、経理上の処理が完成するまでの一時的な処置である。
ところが、この領収書、使途明細書がいつまでたっても「日本五六七教会」側には届かなかった。御神業にかかわる献金に領収書などは必要としないという考え方が担当者にあったということは、当時としてみればわからないではない。しかも不幸なことに、明主様の側近奉仕者は御神業には精通していても経理的知識に暗かった。この当時、總斎の許から明主様に届けられた金額は、毎月一千万円近くに及んだ。昭和二十三年前後のことである。この莫大な金額のほかに、毎月必ず明主様から總斎にさらに数百万単位で用立てを依頼されている。あまりの金額の多さに事務処理が追いつかなかったのかもしれない。しかし、御神業にかかわることであればなおさら、金銭のことで疑われないような配慮が必要であった。
また、明主様の側近には「日本五六七教会」から当初は正式に給与が支払われていた。しかも、同時に明主様からも「小遣い」を渡されている場合もあり、給与隠匿の嫌疑もかけられた。その結果、源泉徴収を二度払えと査定された者もあった。
結局、査察の結果「日本五六七教会」から明主様にお届けした献金は、領収書がないために帳簿上の処理ができず、その結果使途不明金ということで処理された。したがって、これは明主様の個人所得とみなされることになったのである。その所得に対して、当時のお金で数千万円というとんでもない追徴金が課せられた。この報告を聞いて、總斎はその全額を自分が負うことで明主様への御用を果たそうとしたのである。
ところが、税務当局は、これはあくまで明主様の側の問題であるとして、總斎の提言を取り合ってくれない。交渉を重ねた結果、税務署は明主様と總斎が追徴金を半々にして支払うことを認めた。總斎はこのことを神田に固く口止めした。人の知らないところで御用を果たし、そしてそのことを決して口外させない、いわば陰徳としての御用を行なったのである。陰徳こそは、人に判らないが自分自身の喜びは倍加し、それが明主様が一番お喜びになると確信していたのである。
しかし、この間の事情を知らない者は、總斎が起こした事件に明主様まで巻き込んだと批判するようになった。しかし、このような批判にさらされても總斎は弁解をすることは一切なかった。実際はこのような経緯があったことを、そしてこの事件で貫き通した總斎の徹底した御用への姿勢とを、ぜひ深く心にとどめていただきたい。だが、この努力の甲斐もなくこの事件を契機として、教団はのちの法難を招来することになる。
以上は神田宗次の話によっているが、この脱税容疑のため、世間の「日本観音教団」「日本五六七教会」に対する風当たりは、これ以降たいへん厳しいものとなっていく。一般新聞にこの事件が報道されるや否や、教団や明主様に対するさまざまな誹謗中傷が行なわれたのである。ラジオ放送でも根拠のない批判が行なわれた。それによって、教団に対する強請<ゆすり>やたかりが横行することになった。
また、根拠のない投書や密告が警察当局や進駐軍に行なわれた結果、とんでもない捜索を受けることになってしまったのである。それは進駐軍犯罪捜査課による貴金属隠匿にかかわる捜索であった。昭和二十四年八月のことである。金属探知器を駆使した捜索も、当然ながら空振りに終わったのだが、こうした根拠のあやふやな投書だけで教団を捜索すること自体、異常なことであった。
こういった混乱に拍車をかけたのが、教団が依頼した二人の弁護士の争いであった。それは元来ちょっとした感情的行き違いで弁護士手数料の差が誤解となり、一方の弁護士がもう一方を告訴するというたわいない事件であった。この件が、また歪曲されて新聞報道された。これによってますます社会的な批判の目が教団に向けられることになったのだが、このような事態が検察当局の捜索を招来し、あとに述べる大きな法難へと発展することになったのである。