いま苦しんでいる人を

 岡田さんが、大本に入信されたころ、大本では、文芸活動に力を入れておりまして、明光社という文芸活動の独立機関を持っておりました。私は明光社の社長をしておりましたが、岡田さんが参拝に見えられた折、よく明光社へ来られましたが、初めは、あまりお話をしなかったんですが、なかなかおもしろい方、いや、おもしろいというより、ちょっと変わった方でしたので、そのうちにお親しくさせていただいて、よくお話をするようになりました。

 ですから、最初は信仰という問題ではなく文芸の方で親しくなったんですが、その当時から私が非常に深い印象を持ったのは、岡田さんも文芸に熱心で、特に初めは冠句でしたが、岡田さんは出題されると、いつも間髪を容れずに作句されるわけで、非常に頭の切れるお方だなあと思ったことです。それにとても物事に凝られ、一種の凝り性でした。

 ですから、文芸も最初は冠句、つぎに和歌をされましたが、とても一生懸命になられました。奥さん(二代様)も、ともにやっておられましたが、おふたりとも明光社員としては幹部級の方になられました。

 明光社では、よく会を催して、そこで作句、作歌をするわけですが、優秀な方は天の巻をもらうのです。この天の巻を五つ以上とったらとか、十以上をとりますと、「月の家」(宗匠は聖師様――出口王仁三郎師)の号をいただける仕組になっていたのです。もちろん、岡田さんご夫妻もいただいておられまして、岡田さんの家号は茂月、奥さんは岡月だったと思います。 歌を作られますと、私にもよく見せられまして『批評してくれ』と言われまして、私も意見を述べてよく話合いましたが、ともかく非常に熱心でした。ですから、明光社の社員中では、一頭地を抜いた存在の人でした。

 それに、熱心なばかりでなく、勘のするどい方で、さきに申した通り、たとえば、冠句会で出題されても、いつも一番早く作られるのは岡田さんでした。ツボを心得ているというか、急所のつかみ方がうまくて、ほとんど推敲なんてされず、即興的に作られました。それでいて立派なものなんです。

 それにお人柄に、人を魅きつける独特のものを持っていられました。いつもよく夜おそくまで談笑するのですが、その話に魅入ってしまいます。私はよく岡田さんに、「あんたは、個人対個人の話合いにはズバ抜けた才能を持っている。しかし講演会のように大勢の前では不向きではないかな」なんて言うと、岡田さんも、『そうだ』と相槌を打っておられましたが、とにかくその場の雰囲気をつかむことが、うまい人でした。

 聖師様とも性格的にも似たところがあって、聖師様も、「岡田さん、岡田さん」と言って、特別に目をかけておられたようでした。 岡田さんは、東京で布教されておられたんですが、そのころの大本で、一番力を入れておりましたことは、昭和神聖運動という一種の思想改革運動でありまして、私はそれの方の責任者でもありましたから、上京いたしますと、地方幹部の方々が、一堂に集まって来ては、その作戦を練っていたわけですが、岡田さんは、そういう運動には全然無関心のようで、もっぱら痛気治しの方に興味をもっておられたのです。

 ですから、私に対しても、『このごろ、御手代で病気治しをやっているが、とてもよく治る』とお取次の話ばかりして来られるのです。それで私も、「それは結構だが、しかし、病気治しばかりやってもらっては困る。思想運動の方にも力を入れてほしい」と言ったのですが、『それはわかっている。しかし、あちらからも、こちら からも頼まれて、運動どころではない』と言われて、実際、私もその点非常に困ったものでした。

 東京在住の他の幹部からは〝岡田さんは、お取次ばかりに夢中になっているから、あなたから忠告してほしい〟と言われてもおりまして、そのつど岡田さんにお話したわけですが、岡田さんは、『これで人を扱うことも大事中の大事ではないか。運動をやっても人々を直接救えるものではない。いま苦しんでいる人をほっておくわけにはいかないではないか』という持論でした。

 また、岡田さんの病気治しは、実際よく治ったものです。われわれがやっても、それほど効果がなかったのに、あの人がやると、ほんとうによく治りました。それも、結局は、あの人の病人に対する親切と熱意、研究熱心の賜物と私は思います。

 さきほど私は、岡田さんは凝り性だったと申しましたが、その裏には、そういうものが裏打ちされていたのです。