『いいと思えば、それでいい』

 あるとき、碧雲荘へ行きましたら、床の間に栖鳳の絵がかけてあって、明主様は『どうだ、いいだろう』と言われました。

 それで、私は、「大変結構のように思うのですが、まだ、ほんとうのよさが呑み込めなくて……」と申し上げましたら、とたんにご機嫌が悪くなって、『何もそう皮肉ってみなくてもいいんだ。いいなと思ったら、それでいいんだ。私なんかよくわかりませんとかなんとか、ひねくれた言い方をする人があるが、そんなことして絵を見る必要はない』とおっしゃいました。

 また、あるとき、奉仕の若い女の子が、明主様のお部屋にはいってきて、そこにある絵を賞めたのです。

 すると、明主様は非常に気持のいい顔をなさいました。

 私たちはよく、こういう場合、“おまえなどに絵がわかるものか”というような気持をもちやすいのですが、明主様は大変によろこばれて、気分よさそうに、『そうか、いい絵だ』と言われました。

 これは、絵もまた、みたま相応にわかるものだという明主様のお心かと、私は思っています。

 それから、これははっきり昭和二十八年とおぼえていますが、箱根美術館で、私は宗達の烏の水墨画を見ていましたところ、瞬間的ですが、その烏が私をグイとにらんでいるような気がして、あるショックを感じたことがあります。

 これはどういうことだろうと、あとで明主様にお話しますと、『うん、そういうことは、ときどきあるものだ。私は書を見ているとき、そういうことを感ずることがある』と言われました。

 絵にしろ、書にしろ、大家と言われる人の入魂の作品だからというような説明は、明主様はなさいませんでしたが、私もそういうことだろうと思っています。