めったに本部へお参りしたこともないぼくが、明主様のご浄霊がいただけると聞いたので、行く気になりました。
明主様のご浄霊はどういうやり方か、教会の先生と同じかどうか、それも見たいと思って、他の信者さんが頭をさげているのに、ぼくは頭を上げたまま、明主様の手を視線で追いながら見ていました。ぼくたちの方へ霊気を放射される時も、顔を上げたまま、その手を見ていました。ぼくの態度は、いわば末信者が冷静に観察しているようなもので、信者とすれば不遜きわまるものであったでしょう。
浄霊がすみ、明主様が退出されてから、習慣的になんの気もなく、ふと、顔へ手を当ててみると、いつも指先に堅く当たるイボがない。オヤ……と思って指先で探るように丹念にさわってみたがやっぱりない。今度は左の指先でイボを探してみましたが、これにも手応えがない、どうしたのだろうか。慌てて懐中鏡に写して見ると、ふたつともイボがなくなっているんです。明主様がお出ましになる時までは確かにあったものが、なぜ、いつのまになくなったのか。品物ではあるまいし、小さくとも肉体の一部であってみれば、切れば血も出るし、痛くもある。それが痛みも痒みも感じないで、いつのまにか除かれている。不思議だ、一体、どうして除れたのか。いくら考えてみても解らない。どのみち邪魔なものがなくなってくれたのはありがたい、と思ってその座を立つとき、他の信者さんたちがするように御神殿に向かって礼をしているうちに、“明主様のいまのご浄霊で消え失せたのだ”と天啓のように頭にきらめくものがありました。
明主様のいまのご浄霊で……もう一度イボのあったところをさわってみましたが、やっぱりありません。
ぼくにしてみれば、まるで狐にたぶらかされているような気持でした。
その不思議な日からきょうで十日目。毎日、鏡で見たり指でさわってみたり、これをいく度繰返してみてもイボはありません。明主様の一ぺんのご浄霊で……
と思うと、不熱心、不心得なぼくに神様が奇蹟を見せてくれたのだ。そう思うと、明主様に対するいままでのぼくの認識も、救世教に対するこれまでの批判的な考えも、全部改めなければならない。そう考えています。
明主様のご浄霊、それも千人近い信者が、あんな短い時間うけただけで、こうした奇蹟が起こることでしょうか