不思議な方という印象

 先日、私の友人の息子さんが、熱海に本部のある救世教の信者になったというのを聞いて、「それでは教祖は岡田さんではないか」と尋ねると、「そうです」とのことで、ゆくりなくも私の記憶の底にあった十五年前のことを思い出したのでした。

 それは昭和二十五年の末ごろだったと思います。私は大阪から上京して、その日、鶴見祐輔さんの太平洋協会の事務所で、当の鶴見さんのほか、伊藤忠兵衛さん、加納久朗さん、それに米人のアレックス・ぺンドルトン弁護士と会談していました。それはブラジルでの事業のことで、本来は伊藤忠兵衛さんの会社あたりでやりたいのですが、財閥解体などの関係で、私にやらないかとの相談だったのです。

 そこへ、小柄で、和服姿の白髪の老人が、たしかステッキを持っておられたと思いますが、静かにはいってこられました。

 それを見ると、鶴見さんがすぐ席を立って挨拶されました。そして、その老人を私たちのそばの椅子に案内されました。

 するとベンドルトン氏が立ち上がって、丁寧に挨拶すると、老人を自分の横の席に招きました。このベンドルトンという米人は、終戦後GHQに勤務し、東京裁判の検事をつとめた人で、ふだんはいかにも日本人というものを軽蔑しているような、不遜なところの見える人ですが、それが非常に丁寧な態度で、その老人に敬意を表わしていますし、鶴見さんなどともお知り合いのようなので、私は、この見知らぬ老人は一体どういう方なのだろうと不思議に思いました。

 そして、この人が救世教の開祖である岡田さんであると、鶴見さんから紹介されて、私も初対面のご挨拶をいたしました次第ですが、それでもほんとうのところ、私にはどうもピンと来ませんでした。それほどに、どこか平凡な大百姓のご隠居さんという感じを受けたのでした。

 それから、みなさんのあいだでいろいろと話がはずみましたが、岡田さんは宗教のことにはすこしも触れず、熱海で土地を買われるお話や、集めていられる美術品のことだけでした。ことに美術品のお話になると、岡田さんは非常に熱心に話されました。

 やがて、ひと足おくれて岡田さんの奥さまが部屋にはいって来られました。、大柄で豊かな福相をもたれた上品な婦人で、しかもなかなかの話上手で、座も一層賑やかになりました。

 私は、当時の日本人が、血眼になって闇の物資をあさり、金もうけに夢中になっているなかで、岡田さんが、海外流出を防ぐために身銭を切って美術品を買い求め、ゆくゆくはそれを一般に公開する美術館を建て、戦後の荒廃した人心に、うるおいを与えたいという大理想をもっておられることを知り、ほんとうに驚きもし、敬服したのでした。

 しかし、その外見からは、とうていそのようなことを感じることは出来ませんでした。それほどに平凡な市井の一老人としか受けとれませんでした。その宗教者臭くない態度に、奥床しさを感ずるというよりも、ただ不思議だという感じを強くしました。やがて、岡田さんご夫妻が辞去されたあと、鶴見さんは私たちに、「あの人は非常な霊能者で、自分もあの人の書いたお守り(「おひかり」) を懐中しているが、いろいろと奇蹟がある」と話され、他の人もまた、「岡田さんは、土地や美術品を手に入れられる際は、出来るだけ安く買いたたこうというような卑しいことは決してされない。必ず適正価格で買われる」と言われました。私は、ますます〝不思議な方だなあ″と、いまもって忘れることが出来ません。

 生涯ただ一回だけの思い出ですが、非常に強く鮮やかな印象として、あの日の岡田さんのイメージは私の心にいまも生き続けているのです。

 ただ、東京裁判の検事が、どうして岡田さんを知っていたか、知っているというだけでなく、あの傲岸ともいえる米人が、あれだけの丁重さで岡田さんを迎えたのかーそのへんの消息は聞き洩らしてしまいました。