明主様、箱根へ──宝山荘の新しい主・渋井總斎

「私の代わりはあなたしかいないのだから、あとはよろしくお願いしますよ」
 明主様のお言葉はただそれだけだった。
「それじゃあ、よろしく」
 とお言葉をかけ、部屋を出て行かれた。

 總斎はそれを聞いて肚が決まった。

 今まで明主様の座られていた方を向いたまま深々と頭をたれた。この時、總斎が明主様の代わりに宝山荘の主となることに決まったのである。

 明主様は早くから、み教えを広める殿堂として箱根、熱海の地に着眼しておられた。昭和十九年になると明主様のご構想が具体的になってきた。御神業の発展のために東京の宝山荘を離れ、その活動の中心となるべき“聖なる場所”に移られようとしていたのである。

 すでに、二度にわたる箱根、熱海の旅行に随行した總斎は、この明主様の御神業推進の御用に尽力していた。すなわち箱根・強羅の神山荘への明主様の転居である。神山荘は、戦前の財界の重鎮であった藤山雷太の別荘であった。明主様はこの屋敷が神の家といってよい造りになっていることに注目された。以前から御神業の発展のために、神様が用意されていたものであると見抜かれたのである。この屋敷を神山荘と名づけて明主様が東京の宝山荘から転居されたのは、昭和十九年五月五日のことであった。

 神山荘と名づけるについて、明主様は次のように記されている。

 ……箱根こそ日本の中心であり、そのまた中心が強羅であり、そこから仰ぎ見る早雲山の奥にそびえているのが神山で、箱根連山中の最高峰を占め、真の中心である。としたらこの山が日本東西の分岐点になっているのはいうまでもない。これこそまことに神秘であって、神山の名も相応しいと思う。

 したがって本当をいえば、神山の上に地上天国を造るべきだが、それは不可能であるためここを選んだのである。私は強羅へ来た最初の住宅を神山荘と名づけたのも神山の型としたわけで、この日光殿の所を当時早雲寮と名づけたのも、右のごとく早雲山の意味である。次に面白いのは元々強羅を拓いたのはかの登山電鉄会社で、最初この神仙郷の場所を日本公園の名で作ったもので、その下段である今の強羅公園が洋風公園としたのも神秘である。こうみてくると日本は世界の公園であり、日本の公園が箱根で、箱根の公園が強羅で、強羅の中心が神仙郷であるから、神仙郷こそ世界の真の中心ということになろう。
(『天国の礎』芸術)

 また明主様は箱根へ転居されて三ヵ月を経た昭和十九年八月、熱海市の東山に、もう一軒の邸宅を購入された。この屋敷が、その地名にちなんで名づけられた東山荘である。かつて第一銀行頭取であった石井健吾が昭和八年頃に建て、その後、山下汽船の山下亀三郎の所有となっていたものであった。明主様はこの年の十月五日に神山荘から東山荘に移られた。この東山荘への転居の経緯については昭和二十七年七月のご面会時にお話をされてる。

 明主様は、この箱根・神山荘、熱海・東山荘を足掛りに、これら屋敷の周辺を探索し、地上天国の雛型建設のためにもっと相応しい場所を求めようとされていたのであった。それは箱根の神仙郷地上天国の建設着手に、次いで熱海の瑞雲郷地上天国の建設着手によって、現実のものとなっていくのである。
 
 明主様が箱根に移られたことによって、新しく宝山荘に住むことになったのが、總斎であった。今まで明主様がおられたその聖なる場所に、後を引き継ぐ形で總斎がその主となるのである。それだけでも明主様がいかに總斎に信頼を寄せておられたかよく判るのである。すでに触れたように、今までよりも高い御神業の段階に入られた明主様は、これまで行なってこられた治療行為を、布教の最前線で活動する弟子に託された。そのことは、今後、弟子たちが明主様のご計画の御用を務めなければならないことを意味する。これまで明主様のお仕事の中心の場所であった宝山荘に、總斎が入ることにより、總斎は明主様の許、教団の中枢の御用を担っていくことになる。

 ところが、明主様に代わって宝山荘に住まうことになって、一番驚いたのは總斎自身であった。たしかに總斎は今回の明主様の箱根・神山荘、熱海・東山荘に関する御用を誰よりもさせていただいた。そして、これまで宝山荘についても多大な御用を遂行している。

 宝山荘は昭和十年十月に、明主様が世田谷上野毛にあった敷地三千二百坪、建坪三百坪ほどの男爵・田健治郎邸を手付け金一万円で購入されたものである。最初、玉川郷と呼ばれていたこの地は、昭和十一年八月から宝山荘と名称が改められた。しかし、この玉川郷は隣接地を購入した五島慶太氏との間で係争を生じた。明主様が手付けを支払われたすぐあとで、五島氏が玉川郷の代金を所有者に支払い、抵当権を設定したからである。明主様はその後、五島氏から訴えられ、未解決のまま神山荘に移られたのである。この時点で、裁判を引き継いで弁護士等の経費の一切をまかなっていたのが總斎である。

 当時の教団の財務関係を担当していた神田宗次によれば、戦後和解が成立するまでの十数年間にわたる裁判ならびに弁護士報酬などの諸経費、また和解の際の宝山荘の代金など、莫大な費用の一切を負担した。このことは今日までの教団関係者はほとんど知らないことであった。總斎は自らが行なったことをひけらかすような、さもしいことはしなかった。そして宝山荘は改めて總斎から明主様に献上と同様な形でお渡しをしている。そして、最後は明主様が長年望まれていた野々村仁清の「色絵藤花文茶壺」(国宝・MOA美術館所蔵)の購入代金に充てるために昭和二十九年に売却されたのである。