宝山荘での御用

 これほど明主様の御用を忠実に務めている總斎だったが、「私は昭和十三年に明主様の直弟子の末席に名を連ねるようになったいわば新参者である。諸先輩の中には、当然自分が明主様に代わって宝山荘での御用を務めさせていただくものと思っている方もいるだろう。私が宝山荘に住まうことになっていろいろと波風が立ってはいけない」 
 と、考えていた。

 御用はおかげをいただくために、それを期待して行なうものではない。天国建設という人類の幸せを願って、明主様のご理想をこの世に実現することを喜びとする信仰こそが、明主様のみ心に叶うものである。信仰は無償であるからこそ御用が尊いのである。總斎はこのことを貫きたかった。

 明主様は箱根、熱海に移られた後も、總斎にはますます御用に励んでもらわなくてはならぬと考えていた。
「これからがたいへんなのですよ」

 この明主様のお言葉は、御用の報償として總斎を宝山荘の主にするのではない。なお一層の御用を務めるはずの總斎に相応しい場を与えるという意味であると思われた。總斎はこれで肚を決めた。
「他の者に何を言われて気にすることがあろうか。私は明主様の御用をさせていただく。ただそのことだけを考えればよいのだ」 總斎はそう決心した。

 しかし、その後先輩たちとの確執もあって内部の不調和を生み、いろいろな問題を惹起する要因となった。總斎の宝山荘での活動は、明主様のご構想である地上天国の雛形をつくるための御用であった。もちろん浄霊という名の救世の業で、明主様の教えを多くの人に知らしめることも重要な使命である。しかしこの救世の御神業は、明主様に対する誠の御用がなされることによって初めて実を結ぶものとなるのである。總斎がここ宝山荘で活動していくということは、明主様の後をうけて神意に適った活動を行なうことである。いわば明主様の分身として總斎は心言行を実践しなくてはならない。そのために總斎は明主様の代理として宝山荘に入り、明主様への御用をさせていただかねばならないのである。

 ある意味で、明主様の代理として御用をすることは、浄霊力や感化力といった總斎のさまざまな神聖性が保証されていると考えることができる。總斎が現したさまざまな奇蹟は、總斎が明主様のみ心のままに御用を行なった結果であったのだ。金銭や献上品の御用をさせていただくことと、全国広く布教に走りまわり總斎自身が奇蹟を現して人びとを癒し、明主様の偉大さを示すことによって、明主様の御用ができる弟子を育成することは、一見違っているようでいて実は同じものである。“御用”の結果として表れ方は違っているかもしれないが、その本質は同一のものである。この時、明主様は地上天国の雛形を新しい地でお造りになることを目指されており、總斎は宝山荘という新しい地で神の嘉<よみ>する活躍を始めたのである。

 明主様への總斎のさまざまな御用は、明主様に対する總斎の生き方そのものである。それは余人にはまねのできない絶対的な境地での奉仕であった。己を無にして明主様にお仕えする。このことは總斎一人にとどまるものではなく、總斎と同じように明主様に仕えていたこの時代の奉仕者すべてに対して言えることである。

 總斎が新宿から上野毛こ宝山荘、そして熱海、小田原へと展開していった布教活動の結果、世界救世教は今日の一大教団として発展する基盤が成ったといっても過言ではない。

 總斎が宝山荘の主となり、太平洋戦争もいよいよ終局を迎えた。もちろん本教団は戦火をくぐり抜けた。そして戦後、教団はさまざまに変遷し発展をとげていくのである。