火(日)の系統の神様=善悪の立別け

 今年の節分は非常に意味があるのです。私としても非常に大きな奇蹟があったのですが、これはまだ言うわけにはゆきませんが、いずれ話をします。

 この節分という意味は、大本教と非常に関係があるのです。ごく古い、神代というのですが、神代と言っても、空漠たるものでなくて、神格を得た人間が住んで居た時代で、いわば、この前の昼間の世界、といったようなものです。

 その時に世界を主宰していた神様が、国常立尊(くにとこたちのみこと)という神様です。この神様は非常に厳正な神様で、間違った事は許さないというような政策をとったために、非常に多くの神様ーー八百万の神(やおよろずのかみ)ーーから、その時分でも興論が、どうもあんまりやかましすぎてとてもやりきれない、だから押込めてしまった方がよいというので、排斥運動、押込運動をした結果、押込められたのです。

 それで艮(うしとら)(東と北の間)のある地点に押込めたのです。そうして、再び世の中に出て来られないようにというので、豆を炒ってまいて、その時に″炒豆に花が咲いたら出て来てもよい″と・・・もっとも、炒った豆が芽を出すはずがないのですから・・・それを条件のようにして押込めたのです。それで非常に悪い神様としたのです。

 これは大本教のお筆先にありますが、「悪神、たたり神と申して、われを押込めたのであるぞよ」というわけです。それで、鬼門は悪神だからして、鬼門に向かって越したり、いろいろな事をすると恐ろしいというような説を作ったわけです。それで何事も、鬼門は恐ろしいというように教育したようなわけです。それが今もって続いているので、人は非常に鬼門を嫌うのです。

 ところが事実は反対で、大変な良い立派な神様です。ただ、あんまり正しすぎたためにそういう事になったのですが、その根本は、やはりその時に、夜の世界になったわけです。

 そこで、国常立尊様は火(日)の系統の神様ですから、夜の世界ではまず隠退しなければならない事になるわけです。それがまず、お筆先には三千年としてあります。それでいよいよ三千年だったので、今度は御自分が、時節が来たので世の中に出る、と・・・・出るについてはいろいろな・・・お筆先には三千世界の大芝居という事になってます。この押込めた系統の神様・・・総大将は天若彦尊(あまわかひこのみこと)という神様でーーこれはよく天邪鬼(あまのじゃく)という事を言いますーーその神様が総大将で、あといろいろな神様がその一派に属したわけです。

 その押込められた時には、僅かな部下を連れて隠退されたが、それから命が無くなって、死んで霊界に行って、三千年の間、閻魔大王になったという事になっているのです。

 お筆先には「今度は、われはこの世の閻魔と現われて、世の立て替え立て直しを致すぞよ」とあります。という事は、審判をされるという事です。

 今までは、霊界の死んだ霊を審判したが、今度は生きた人間の審判をする、という事です。つまり、もう悪は許されない、という事になるのです。そのために大本教というものを作ったのです。私か大本信者になって、そういう事をいろいろ・・・表面的の事も、裏面=霊的の事もすっかり分ったので、大本を脱退して、観音教から救世教(メシヤ教)というふうにつくったのです。

 お筆先の一番冒頭に「三千世界一度に開く梅の花、艮の金神の世になりたぞよ。梅で開いて松で治める神国になりたぞよ。日本は神国。この世は神がかまわなゆけぬ世であるぞよ」というような事が書いてあるのです。

 ″三千世界一度に開く梅の花″と言って、梅というのは非常に重要な事になっているのです。それで艮の金神様は、霊界では閻魔大王となり、現界では観世音菩薩となるのです。

 観世音菩薩は兄の花姫(このはなひめのみこと)になるのですが、兄の花姫は神界のお働きで、伊都能売の神になるわけです。これは兄の花姫と、木の花咲爺姫(このはなさくやびめ)とありますが、兄の花姫というのは、兄の花といって梅になるわけです。梅が先に咲くから兄の花になるわけです。それから木の花咲爺姫というのは桜の花になるのです。この場合は仏界のお働きで、本の花咲爺姫は観音様になるのです。富士山に行くと木の花咲爺姫を祭ってあります。それであそこで絵姿を買う事になってますが、あれは桜の技を持ってます。その富士山の木の花咲爺姫は頂上の真中に祭ってあります。

 頂上の上り口の右側にあるわけで、久須志神社としてありますが、これは九頭龍権現といって、木の花咲爺姫の守護神になるわけで、龍で守護しているわけです。これが最初私に憑った龍神です。それで、木の花咲爺姫は桜であって、これは仏の働きになるのです。ですから兄の花姫は神様の働きになるのです。それで木の花咲爺姫は仏の働きだから、最初インドに出られたわけです。ですから仏の方では桜の花になってますが、これはそういう因縁になるわけです。

 そこで今年の節分は、いよいよ艮の金神(うしとらのこんじん)様が、この世の閻魔と現われるという、最初になるわけです。ですから、これから審判が厳しくなるわけです。けれどもこれは、最初からパッとやるわけではなくて、神様の方はジリジリと、つまり、だんだん育つようになって行きます。そのためかもしれないが、最近いろんな汚職事件が重なり合って出てきましたが、こういうのも、一つの現われではないかととれるのです。

 面白いのは、節分の日は大きな奇蹟があったのですが、昨日は小さな奇蹟があったのです。というのは、道具屋が古い掛物を持ってきたのですが、それは支那の元時代の物で、今から四百年近く前に画かれた絵ですが、それが閻魔大王なのです。お供が廻りに居て、よくかけてますが、表装がいたんでいるから、それを直して、いずれ箱根美術館に出しますが、これも小さな奇蹟です。今まで閻魔の絵というのは見た事がありません。

 そういうようなわけで、神様の御仕組は一歩前進したわけです。今年の節分というのはそういう意味があるのです。

 それで、そうなった結果はどうだというと、つまり善悪の立て分け、という事になっているのです。という事は、善の方が勝ってゆき、悪の方が負けていくのです。そうすると救世教が発展するという事になります。こんなよい、素晴らしい宗教が、こんなにグズグズしているわけがないので、ドンドン発展しなければならないわけです。しかし発展が遅いという事は、つまり悪の方が押えているからです。だから、これが分って、感心して、信者になり、人にもならせなければいけない、と、そう思っていながら、ついグズグズしているという事は一方にそれを邪魔する霊があるのです。その邪魔する霊が、これからだんだん弱ってゆきますから、そうすると順調にゆくわけです。節分の意義を話したわけです。

「御教え集第31号」 昭和29年2月6日

御教え集