平凡なもの

 信仰とは、平凡<へいぼん>なもので、ごく当り前のことを当り前にすることであります。ですから、信仰はすなわち人間の道と言われるのであります。

 朝夕、日と月と地のご恩を感謝いたしまして、神さまにお祈りをささげますのも、人間としてはごく当り前のことであり、また、神さまのご意志を実践<じっせん>して、私どもに真理の道を教えられた明主さまに、報恩<ほうおん>と感謝をささげるのも、弟子としてしごく当り前のつとめであります。言いかえますと、人として生れてきた以上は、人生の意義、目的を正しく把握<はあく>し、神さまの御<み>心を心として、世のため、人のために、神さまの代行者<だいこうしゃ>として働かせていただかなければならないのであります。このように、当り前のことを当り前にしておれば、この世は持ちつ持たれつのけっこうな世になるのであります。ところが、いまの世の中は、この人として、ごく当り前の平凡な真の道が、無神思想に覆われて、みいだせなくて苦しんでいるのであります。信仰は、この平凡の道を教えていくものであります。このように考えてみますと、平凡という二字でありましても、じつにむずかしい真理のふくまれていることがわかります。明主さまはよく『当り前のことが、いまの人にはなかなかできないのだ』『信仰というものは平凡なものだよ』とおっしゃっておられましたが、いずれも、このことを指<さ>されたものでありましょう。

「栄光三六一号」