御用のための桐の板。金欄の購入

 ある日、桐の板が四トントラック一台、總斎の留守中に届いた。買った経緯はまったく聞いていないから、受け取るほうも困り、相手と押し問答となったが、間違いなく渋井家宛である。しかし、置く場所がない。すでに店は廃業していたので、土間にひとまず積み上げておいた。家族や奉仕の者は、
「この板でタンスを作ったら上等なタンスが何棹できるかな」とか、
「これで下駄を作るわけではないだろうな」
 などと言いながら桐の板の山を眺めていた。山や紙を買った記憶がまだ残っている時期である。材木屋ならいざ知らず、みなが首をひねりながら勝手な想像をしていた。

 夕方、總斎が帰宅しその桐の板の使途が判った。「お守り(“おひかり”)」を入れる箱を作る材料であった。現在行なわれている入信教習は当時は講習といって、参加者は一週間治療所の先生の脇に朝から晩まで座っていなければならない。一週間で講習は終わり、最後の日に「お守り」をいただく。「お守り」の箱は十五センチ×二十センチ×三センチくらいで、寝る時は「お守り」をこの箱に納めるようにと言われて渡されるのである。

 昭和十五年当時、明主様に対する当局の干渉が著しく、明主様は、先手を打って治療から退かれることになった。そこで明主様は弟子たちに講習を許されることになったのだが、この時、總斎のところでどのくらい講習参加者があったかはっきりとは判らないが、月に少なくとも五、六十名くらいはあったのではなかったか。そこで桐の板を購入することになったのだが、この板で箱を作ったら優に万は越えてしまう。仮に月に百名の講習参加者がいたとしても、約十年間分である。明主様から講習を許されてわずかの間に、總斎はすでに先を見通していたのである。実際は戦争が激しくなり、お守りは寝る時もかけたままでよいことになり、箱は不要となったが、桐の板は御神業にかかわる御神体などの箱に転用されていなければならない。一週間で講習は終わり、最後の日に「お守り」をいただく。「お守り」の箱は十五センチ×二十センチ×三センチくらいで、寝る時は「お守り」をこの箱に納めるようにと言われて渡されるのである。

 これと同じような話で、お守りの袋、絹の生地ならびに中袋の金襴など、戦争末期には入手し難い状態を見越して、それ以前に数百反も購入していたという。金襴は単価が高く、資金面ではたいへんであったと思われる。どういう手段で購入したか判らないが、洋服商のルートを使ったのであろう。

 總斎は、日本はおろか世界中に明主様の教えを広めるつもりであったから、まずは手始めに数百反という数を購入したのである。しかし、それにしてもたいへんなのは袋に仕上げる仕立ての手間と職人の手当である。桐の箱の時は渋井家に出入りの大工、指物師に細工を依頼したが、袋の場合は箱に較べて非常に数が多い。そこで京都から袋物専門の職人を家族ともども呼び寄せ、渋井家の洋服仕立て職人から特に手先の器用な者を選んで指導を受けさせ、仕事を覚えさせた。常時、袋作りに五、六名が専門にかかっていた。のちにこの職人たちは専門の会社をつくり、世界救世教のお守り袋を数十年間にわたって教団に納め続けたという。

 また、当然「おひかり」と「御神体」用の和紙も岐阜で特別に漉かせていた。戦争末期から終戦にかけてもっとも物資不足の時期に、なんら御神業に支障なく布教活動ができた裏には、總斎のこれらの功績があったといわなければならない。

 この事実を最もよくご承知されていたのは明主様であった。何しろ、この当時から法難で總斎が第一線を退くまで、明主様がご揮毫された御書体などは、特別なものを除いてすべて總斎が拝領していた。これはお願いして明主様にご揮毫していただくのではなく、明主様の書かれたものすべては總斎に渡すことに決まっていたのである。明主様の秘書を十数年間続けた井上茂登吉が語った言葉によると、 
「明主様の御神業に一切ご不自由をおかけしない」 
 という總斎の言葉に明主様は感動され、特別なものを除いては、すべて總斎に渡すということになったという。また明主様が總斎のために特別に染筆くださったものも多い。例えば十一面観音、龍上観音など、また額としては為書のお額(特定の人のために書いたもの)、着色された青松、紅梅などやその他懐紙、色紙、短冊など。特別に本部用の千手観音、さらに「五六七教」のために「大弥勒御尊像」を下げ渡されている。なお、總斎の死後、渋井家はトラック二台分の明主様のご遺作を教団に献上し、現在は渋井家には数点しか残されていない。

 總斎は一事が万事この調子であった。結果はたいてい總斎の思っていたとおりになった。戦争が日増しに激しくなり、物資が乏しくなってきた時にも、明主様はもちろん明主様のご家族にも何一つご不自由をかけることはなかった。

 そういう一面とは別に、總斎には無駄についてたいへんに厳しい面もあった。ある時、洋服店の職人に対して、とても厳しい調子で叱ったことがあった。それは洋服一着分を一反から裁断したためである。洋服の一着分を一反から切り取ると端ギレが出るがそれが無駄だという。一人前になり店を持つつもりなら、このようなことをしていては商売として成り立たないのだということを教育していたのである。

 總斎は洋服商として、縫製など他の店より優れていないと気がすまなかったようであり、したがって価格は他の洋服店の倍の高さと噂されていた。高すぎるといって品物を引き取らなかった客もあったという。その場合でも絶対に値引きはしなかった。渋井自身は裁断技術に自信を持っており、職人たちの間でも、總斎の裁断は余人にはまねのできないものとして評判であった。

 總斎は、もともと身を持すること謹厳、家にあっても袴をつけ、終日正座をして姿勢を崩すことなく、家族がトランプなどに興じることも許さなかった。店員に対する注意や訓戒、いわゆるお叱言が一、二時間続くのはごく普通のことで、總斎が洋服を注文に来たお客に対してお説教をすることもあった。ある時、總斎が客として来店した学校の教師に対して長々と説教をしたところ、でき上がった品物を届けに行った店員が、その件の教師からお説教の仕返しをされたという。しかし、これは總斎の表面的なことであって、その心根は人に対する思いやりで満ち満ちていたことは多くの人の知るところである。

 御用に専念するようになってから、總斎はあまりに厳格なのは布教にも差し支えが出ると考え、接する人に好感を与えるようにと、鏡を見ては笑顔を作る練習をしたり、相手にも堅苦しさを感じさせないようにとあぐらをかく稽古までした。そのせいか總斎の家の各部屋には理髪店にあるような大きな鏡が備えられていたという。

 總斎に関して、彼は大きな包容力を持って人に接するので、初対面の人であっても十年来の知己のような親密感を受けるし、またその話す言葉には言霊でも宿っているかのように、聞く人が總斎に自然に従ってしまう不思議な説得力が具わっていたという人物評がある。「大変卑俗な例で申しにくいが」と言って小川哲生が次のエピソードを語ってくれた。

 小川の友人でどう話をしても浄霊のことが判らない人がいた。そこで總斎のところに連れていったが、その人は相変わらず總斎に対し、「手を振って病気が治る。そんな馬鹿なことがあるか」
 と言ったところ、總斎は、
「君、腰を振ったら子供ができる。手を振って病気が治るぐらい当たり前」
 と言った。当意即妙、相手の言葉に反応して出る言葉である。この会話で小川の友人は即日入信したそうである。

 治療の現場でみせる浄霊力や弟子づくり、組織づくりに関しては別に項を起こしているので、ここでは一つのエピソードを紹介する。これは總斎の年祭の折、光国教会長であった田辺浩晴の夫人が「叔母の広崎泰子の話です」と語ったものである。

 戦後、全国布教をするさいに總斎はいつも数人の弟子を伴って地方に出向していた。関西布教の拠点、京都駅付近の七条内浜に宿泊していた時のことである。

 總斎の随行員の一人である広崎泰子を呼び、
「広崎きん、たいへん申し訳ないが私の大事な人にお礼をしたい。相手は女性でちょうどあなたぐらいの年齢なんだが、どんな物がよいかね」
 と、言った。広崎は、“先生も隅におけない。いい方がいらっしやるな”と思ったが、それを言うわけにいかず、
「着物がよろしいのでは」
 と、言ったところ、
「それでは反物を探して欲しい。人に差し上げる物だから、あなたが“これならばぜひ着てみたい”“どうしても欲しい”という物を買ってきてください。金額は気にせずに」
 と、言う。

 知ってのとおり京都は呉服の街、終戦直後といっても、京都にはよい反物がまだたくさんあった。しかし、広崎の立場になれば、“渋井先生からの贈り物”ということで、あちこち見て歩いてもなかなか決断ができない。数日後、これなら満足してもらえるという反物をやっと購入し、總斎の許へ届けた。

 總斎は、まず、
「ご苦労さま。たいへんよい物をありがとう。あなたならこの反物をどう思いますか」
 と聞かれた。
「ぜひ欲しい品物ですが、私にはとても手が出ません」
 と広崎が言ったところ、
「人に差し上げる物を選ぶ時には、自分がぜひにも欲しいと思う物を選ばなければなりません。自分が持っている物を差し上げる場合でも、すでに不用な物だからというようなことではいけません」
 という内容の話をし、品物を収めた。

 数日後、再び内浜を訪れると、
「広崎さん。渋井先生がお呼びですよ」
 と言われ、何となく不安に思いながら先生の部屋に向かった。「いろいろと長い間ご苦労さま。何かお礼をしようと思っていましたが、何がよいか判らなかった。これは私の気持ちだから受け取ってほしい」  
 と言って包みを手渡された。

 包みを解き、品物を見た瞬間、広崎は眼の前が霞んでしまうような感覚に襲われた。總斎から依頼されて京都中を探しまわって手に入れた反物だったのだ。

 總斎が「私の大事な人に……」と言っていたまさにその物である。広崎は、總斎の気持ちが判ったとたん、總斎の人を思う温かい心に涙が止まらなかったという。

 広崎は終生その總斎の温もりを生きていく支えとしていたという。