私が、明主様のお側においていただくようになってから、まもなくのことです。
もちろん、明主様のご傘下に参じた以上、人類救済の大業のため、どんなことでもさせていただこうと、大いに喜び勇んで、何かと御用をさせていただいてはいましたが、そのような大きな夢と、自分の無能、無知や虫のごとき小心とのあいだに恐ろしくギャップがあって、常に大きい疑念や空虚に襲われていました。そうして、将来に望みをかける時、だれでもそうであるように、まず何よりも自分の使命を知りたくなりましたので、「私は一体どういう役目で、差当たり何をいたしたらよろしゅうございましょうか」と明主様にお伺いしました。
すると明主様は、即座に、『おまえは内務のことをする役目だから、家にじっとしていればいい。当分短歌や俳句を作ったり、絵をかいたり、芸術的なことをして遊んでおればいいよ』と、実に含蓄(がんちく)ぶかいお言葉を下さいました。
当時(昭和三年ころ)の財政的ご苦難もなんらご介意なく、私をきわめて高級な居候にして下さったわけです。それはなんという計る測り難い思召しなのでしょう。艱難を厭わぬ御用を期した私は、度肝を抜かれたような拍子抜けをしたとともに、温かく偉大なご度量に抱かれたような明るさ、力強さに、胸開く感がしました。
私は、当然ありがたいお言葉通り、素直に直進させていただくべきでしたが、現実は、そこまで信仰も至らないし、芸術に専念し、絵や歌を身につけるほどの意力も能力もなく、特に明主様が、日夜ご神務にお励みになられているのに、自分だけ、ただ漠然として遊んでいるのも楽ではありませんでした。そして、ついあらぬ方へ働こうとするのですが、同僚たちのように、一人前のことは何もできなかった私です。
そのうち、宗教の新聞の戸別売りが始められ、私も大いに張切って参加し、毎日出かけましたが、身心ともに忍耐力のない私はすぐに挫けて、どうしても成績が上がらず、だれにもおとるわが身を悲観していますと、明主様から、『おまえは家にいて御用せよ』とのお言葉をいただき、ホッとしました。
それから、しばらくし“て文芸の会をお始めになり、前記のごとく、筆と声との御用を仰せつけられて、独自の境地が開け、私の存在価値も大いに高まったとともに、はじめて、お役に立つことができる”という歓喜が訪れたのでした。
思えば、だれの眼にも無能者とみられ、レベル以下の怪物だった私の特殊技能を、明主様は最初からご看破になり、時が来るまで遊んでいるよう、ご指示下さったのでありました。