ご神意をうかがい、誤りのないお取次を

 神霊学者<しんれいがくしや>は、神様を説<と>くことにかけては実に微<び>に入り細<さい>に亘<わた>って、千言万語<せんげんばんご>をあやつり、よく言説<げんせつ>してくれますが、すべて観念<かんねん>に始<はじ>まり観念に終って、自身自<みずか>ら神様を信ずるのではないようです。反対に信仰をもった大衆<たいしゆう>は、学問的に神様を説くことはできませんが、そのかわり、実際に神様に触<ふ>れ、神様とともに暮<くら>している人が多いのです。それは、その人たちのもっている素直<すなお>さ、単純<たんじゆん>さが神様に通じるのでありましょう。

 「神を語る人ほど神を知らず、神を知る人神を語らず」と古人<こじん>も言っております。“いろはにほへと、ちりぬるをわか”の下の字を集めると“とかなくてしす”となりますが、これは、“罪科<とが>なくて死す”ということだとだれかが言いました。全く、説かなければ罪はないのに、説くべからざる者が説くから、世を迷<まよ>わせることになるのだ、という意味でもありましょうか。皮肉<ひにく>な痛<いた>い言葉であります。

 それゆえ祝詞<のりと>にも、「説く人の説きの違いなく、聞く人の聞きの誤<あやま>りあらしめず」とあるように、説く人は間違ったら多くの人に迷惑<めいわく>を与えますから、たえずご神意をうかがい、誤らぬよう祈り、かつ心を正し、身の行ないを謹<つつし>んで、神様に仕<つか>うべきでありましょう。