メシヤ会館の建築について、これをやっている椎野という人に、事務所の酒見という人が対談して、椎野の言う事に面白い事があるので読ませます。そうしてその説明をします。
寄書〔メシヤ会館現場責任者椎野氏を訪ねて〕 【註 栄光二四二号】
これについて思い出した事は、法隆寺の五重の塔の寸法が、実にピッタリしている事です。これは聖徳太子が造ったのですが、やはり聖徳太子が、寸法でも何でも感じたままを″こうしろ、ああしろ″として出来たのがあの五重の塔ですが、これが、今の建築家でもあんなにうまく合っている寸法は出来ないのだそうです。私も去年行った時に五重の塔を一番よく見ましたが、実によく合っています。高さといい、一階々々の寸法といい、屋根の形といい、言うところがないのです。
というのは、聖徳太子は私が生まれたのです。ですから私のやっている事が聖徳太子とよく似ているのです。あそこに夢殿があり、其処に救世(グセ)観音というのがありますが。あれは「自分は今にこうなる、こういうふうに生まれる」という事を暗示したものです。夢殿というのは聖徳太子の居間だったのです。それで記念に拵えて、救世観音を作って、これは不断開けてはいけないという「御秘仏」になっているのです。
今のメシヤ会館の寸法がピッタリ合っているという事は、それによく似通っているわけです。聖徳太子がとに角日本に仏教を弘めたのは、奈良を中心として奈良に仏教美術を、自分か作って始めたわけです。
私は、聖徳太子が日本的だったのを、世界的にするわけです。そこであの時代には仏教というのは新しい宗教だったのです。それまでの日本は神道だったのです。
だから救世教という新しい宗教を開くには美術を応用したわけです。
「御教え集29号」 昭和23年12月26日