私が、明主様の召上がる鮎をお焼きする役目を仰せつかっておりましたころ、いつも私は鮎を焼きながら思うんです。焼き方そのものでなく、焼く時の自分の想念が大事だ──ということです。
ご参拝の日など、窓から親戚の者の顔でも見えると、もう心がワクワクしてきます。そういう時の塩焼きをお出しすると、明主様は、『きょうのはよく焼けていない』と、すぐ私の想念の乱れを言い当てられます。
鮎を焼いても、想念が外れているとお叱言をいただくのです。何もかもお見通しの明主様でした。
ある時、“これなら文句は絶対出ないだろう”と、鮎を焼いてお出ししたら、明主様は『あんた』と私を見てから、アユの尻尾の三センチぐらい上がったところ(反ったところの意味)を箸でチョイと指して、『ここだけが焼け目が足りない』とおっしゃり、しかし、そのあとはご機嫌がよくなられましたが、私は、これは明主様が、私の倣慢な想念を指摘されたものと、いまは思っております。
その鮎の塩焼きを、私は約一年間いたしました。思えば、叱られて“アッそうだ”と思うことばかりでした。そして最後には、“こういう仕事は技術だけではどうにもならない、想念が肝心だ”ということを、しみじみ悟らせていただきました。