永遠の幸福をつかむために

 人間は、どうしても正しい信仰の道に入り、世のため人のためにも、できるだけ余力<よりょく>をさいて、幸福の土台となる善行<ぜんこう>を積んでおかなければ、とうてい永遠の幸福は望めないのであります。そして、善行をするにも根本となるのは心でありまして、すべて真善美愛<しんぜんぴあい>の心から湧<わ>きでた行為でなければ本物ではないのであります。たとえば、おなじ行為でも、ひとりは自己愛<じこあい>のためになし、ひとりは利他愛<りたあい>のためになしたとすれば、神は行為そのものをごらんにならず、それを起さしめた心を主としてごらんあそばすので、心のいかんによって、それは善ともなり偽ともなるのであります。これが霊主体従<れいしゅたいじゅう>の法則であります。しかし、現代は神と隔<へだ>たることもっとも遠き時代で、信仰をもたぬ人びととすれば、見えるもののみに頼るはとうぜんの理で、目的を達するためには、手段<しゅだん>を選ばぬという非人道的<ひじんどうてき>人間<にんげん>も現われて、文明とは名ばかりの野蛮未開<やばんみかい>に異<かわ>らぬ世になってしまっているのであります。ですから、一日もはやく、このような物質文明<ぶっしつぶんめい>に毒<どく>された世界の人びとの心を、信仰により洗<あら>いかえて、霊体一致の新しい文明世界といたし、人間の心に、神の利他愛の灯<ひ>をともすことができれば、地上は明るい天国浄土となるのであります。これさえできれば、地上天国建設かならずしも難事<なんじ>ではないと信じます。

「栄光 三九四号」