調査官というような立場から一宗の教祖にお会いすると、たいていの場合は、かまえられるものであり、その答弁もよほど考えて、そつのないように、いわば、よそ行き的になってしまうものでありますが、岡田教祖さまの場合は、初対面の時から、全くそういうことはありませんでした。淡々というのか、ザックバランというのか、いや天衣無縫とでもいうのが一番あたっているかも知れません。それでいて、少しのむだもなく、言われることがことごとくツボにはまっているのです。
おそらく、これは、いついかなる人に会われても、同じことだったろうと思います。したがって、私の方も、いつの場合にも、自分が調査官であるとか、一定の目的をもって教団の調査のためにお会いしている、とかいった意識は全くなくなって、まるで楽しいよもやま話に花が咲いているといったような感じでした。
これは、新宗達が出来てから、マスコミ関係者を紹介して会っていただいた時にでも、全く同じことで、時には、そばで伺っていてハラハラするようなことをズバリお答えになりましたが、それが不審や奇異な感じや反感をちっともおこさず、相手からきわめて自然に受取られるのです。そんなことは教祖さまにお会いしたことごとくの人が感じたことで、私が特に取り立てて言うほどのことではありますまいが、当時としては、かなりに恐れられ、心配もされた調査官としてお目にかかった教祖さんがたの中では、非常に特殊な会い方だっただけに、私は、やはり特に書いておきたいと思ったのです。
さて、お会いしていて、私の胸に深く泌み込んだことは、途方もなく大きい方で、測り知れないところがあり、それでは、何事にも大まかであられたかというに、反面に非常に細かな神経をおもちで、ことさらに神経をつかい、気をくばっていられるようなふうには思えないのに、しかも、どんな細かいところにも、思いやりが行きとどいているといったふうで、フワーッとした、何かしら温かいものに包まれているようでしたから、時の経つのも忘れて、面会が、つい長時間になりがちでした。
いまにして思えば、あんなのが〝人格が宗教的愛そのものになってしまっていた″とでも言うのだったろうと思います。
大きさと細かさとは、ひとりの人の中に共存しがたいもので、大きい方には細かさが不足し、細かい方には大きさが不十分なものですが、それがあんなふうに共存し得た方も、珍しいのではないかと思います。
外から普通に見ていたのではちっともわからないのですが、しかも、空間にも、人間界にもおこることの何ひとつをも映しのがさないように、くまなく張りめぐらされている精巧無比な電子レーダしといったようなものが取りつけてあるとも感ぜられる、あのビリビリひびく特殊な神経――ほかにうまい表現を知りません。さすがは、たぐい少ない大霊能者のおひとりである、といつも思ったのでした。