私が岡田商店へはいった時、先生(明主様)が考案された「旭ダイヤ」という人造ダイヤを専門につくる工場が浅草の三筋町にありまして、二、三十人の女子工員が働いていました。
この旭ダイヤが非常に流行して、工場から出来てくるのを店の外交員が奪い合ったくらいで、需要に足りないんです。
この旭ダイヤはご婦人の髪の飾りもので、土台は真鍮、足は二本で、それに型を作りまして、菊の花ならばその一弁一弁にガラスを割ったのを入れるんです。それがダイヤに見えるわけです。動くたびに光ります。
先生はそれをお昼寝をしていて、風鈴が動くのを見てお考えなさったという話です。そして、専売特許を取りました。もちろん他ではまねが出来ないわけで、それでいくら作ってもまに合わないという売れ行きでした。
この旭ダイヤにかぎらず、小間物類のデザインは、みな先生がご自分でなさるのです。それはもうたいしたものです。
ご自分でどんな細かいものも、みんなお描きになりました。
そればかりでなく、そういう商売──つまり商品を動かす点において、先生は実に日本一の手腕をもっていられました。これは決して私が誇大に言っているのではないのです。日本の小間物界では、そりゃもうたいしたものだったのです。
旭ダイヤの前は、蒔絵でした。これは鼈甲が土台で、それに青い貝などを割って模様にするんですが、当時は日本髪が全盛で、あとは束髪でしたから、これもずいぶん当たりました。そして、“蒔絵は岡田”というように、同業者に認められていました。またそれだけに敵もありました。何しろいいものが出来るので、いくらみなさんがまねをしても追いつかないのです。それを私たちは誇りにしていました。
とにかく、頭を使っていいものを作る。作るから商売は繁昌する。これは偽りのないことです。
要するに先生は、超人的な方で、仕事も人の何倍もなさるし、またそれがお好きなのです。ですから、私も最初は先生をこわいと思いました。
事実、店員たちに対して威圧感がありました。自然にそういうものが出ていて、こちらにピリッと来るんです。これもやはり性格的なものだと思います。
先生は非常にハッキリしていらして、仮に電話をひとつかけるのでも、ちょっとご自分の言われたことと違ったりしますと、お叱りを受けたものです。ご自分の思ったことはキチンとおやりになった方ですから、人が思う通りに動かないとはがゆいのでしょう。
これは私の後輩ですが、先生のおっしゃることをきかないで、無断で遊びに行ったのですが、そうしたら、その人はすぐクビになってしまいました。このように、いいことと悪いことは、実にはっきりしていました。最後までこういう行き方でした。ですから、蔭日向のない人は、どこまでも信用しておられました。それでなければいけませんが、しかしそのために、かえって信用しすぎて失敗されたこともずいぶんおありでした。もちろん、それは裏切る方が悪いんですが……。
先生はお仕事がおすみになると、帝劇へよく奥さまとご一緒で見物に行かれました。五九郎などの喜劇がお好きで、浅草へも行かれました。寄席にもずいぶん行かれました。
まあ、なんでもお好きで、映画なども、浅草で一番先きに活動写真というのが出来た時分からごらんになって、大変なファンでいらっしゃいました。
映画といえば、先生はいまの永代橋のそばに“永代館”という映画館を経営しておられたそうです。
その時分、大正五、六年ですが、東京には映画館はあまりなかったらしいですから、そういうところに目をつけられたということも、普通の方とやはり違うと思います。
また、先生はご家族と一緒に何かされるとか、あるいは、店員たちをよんでご馳走されるとか、そういうことが非常にお好きでいられました。いまでいう厚生福祉のようなことを、そのころから心がけていられたのです。ですから、私がはいらない前ですが、全部の店員を帝劇の芝居に招んだりなさったことも聞いています。
そして、夏になると、小僧さんでも一週間交替で、金沢の別荘へ避暑にやってもらったそうです。
株で失敗なさる前までは、そういう世間で出来ないことをなさったそうです。私が来たころは、それほど派手なことはだんだんなくなりましたが、とにかく先生の人の使い方は、世間でも評判になっていました。