ところで明主様への御用の数々は今触れた聖地、美術品、またその他の不動産施設の購入という、目に見える大きなものだけにとどまらない。
例えば戦時中から終戦後にかけて明主様の洋服やワイシャツ等は、すべて總斎がご用立てしていた。明主様は茶系統の色がお好みで、總斎はいつも明主様のお喜びになるお顔を拝しては、わがことのように喜んでいたと明主様の側近が語っている。
明主様、總斎も晩年の昭和二十九年のことである。当時明主様は熱海・碧雲荘にお住まいであった。ある日の午前十一時頃、碧雲荘から總斎の家に、「明主棟が東京・新宿の中村屋のカレーライスを夕食に召し上がりたいから、二人前を午後六時までに届けてほしい。熱海の岡田ですがと言ってお願いしてください」
との電話があった。その日、總斎は夫妻で上野毛の宝山荘にいて、熱海の留守宅からの電話で明主様のご要請を聞いた。
この日は折悪しく東京都内の都電、バス、地下鉄等の交通機関は全面ストライキで動いておらず、ぐずぐずしていては間に合わなくなってしまう。一同困り果てたが、總斎は、「明主様が召し上がりたいと言われれば、どんなことをしてもお届けしなければいけない。私がタクシーで新宿まで行こう」
と言い、總斎自身も含め四人で上野毛から新宿まで出かけたのである。上野毛から新宿まではかなりの道のりで、特にストライキ中でもあり交通の混雑は尋常でないことは十分に感じられた。しかし總斎には、
「誠があれば必ずご守護はある」
という確たる信念のほどが言葉の端々からうかがわれた。やっとの思いで中村屋に到着し、さっそく店主に、
「熱海の岡田です。二人前のカレーライスを持ち帰れるように」と注文したが、この日、あいにくカレーライス部は休みだった。
しかし事情を訴え懇願したところ、
「ぞれでは特別に作りますが、三時間お待ちください」
とのことである。時計を見つめながら何とか間にあってほしいと祈る思いの三時間、何の目的もなくただ時間待ちのために街をブラブラ歩き、時を過ごすのも楽ではなかった。やがてストライキが解決した。時間通りにやっと待望のカレーライスができ上がるや否や、明主様ご指定の時刻に一刻でも早くとみなは祈る思いで、一人が熱海の碧雲荘まで飛んで行くのを見送った。幸い時間ぎりぎりにお届けできたのだが、總斎が明主様のみ心に応え、あらゆる困難な状況を乗り越えようとする心と、それを身をもって示す姿は、たかがカレー一杯のことでと一笑に付すことができるだろうか。たった一杯のカレーライスにも總斎は真心を込めて明主様にご奉仕したのである。
明主様に仕えるということには、高い低いもない。どのようなことであっても、明主様の御用をさせていただくことが神へのご奉仕なのであるから。