父から教えられたことども

 父(明主様)は、私たち子供のことでは、大体放任主義でした。しかし、口では言わなくても、父親としての暖かい気持をもっておられたことは、よくわかっていました。私は小さい時から、人一倍感じやすい性質でしたから、父がどんな気持でいるか、すぐわかるのです。

 親の権威でおさえつけるということはなく、子供には子供の気持があるのだから仕方ないと、こちらの言い分や意見を尊重してくれました。

 少年のころ、私はカメラがほしくてしょうがないことがありました。けれど、それを口に出して言えなくて、きょう言おうか、あす打ち明けようかと考えていました。

 そして、父につれられて買物に行ったとき、思い切って言ったのですが、父はただ、『うん、うん』とうなずくだけで、なかなか買ってもらえませんでした。その後、何度かねだっているうち買ってくれましたが、そのときのうれしさは、いまでもよくおぼえているくらいです。

 また、凧がほしくて、何度か買ってほしいと頼んだことがありますが、どうしても買ってもらえず、その時は、ほんとうに子供心にもつまらなく思いました。それで、自分で竹を切って、紙を貼って凧を作ったこともありました。

 それから、これはずっと後のことですが、オートバイがほしくてたまらず、買ってもらう前に免許証をとってしまったことがあります。けれど、父にはどうしても買って下さいとは言えず、母に言って、母から父に話をしてもらいました。父は、免許証をとってしまったのなら仕方ないということで、買ってくれました。

 父の生活上の折り目、けじ目は、こちらが固苦しく感じるほどは厳しくありませんが、自然にきちんとしなければならないよう仕向けられます。だいたい父と子供たちは離れて住んでおりましたから、時には私など挨拶しないことがあります。すると会ったとき、父は、挨拶だけはしなさいと叱りました。だから、出来るだけ挨拶はするようにしておりました。

 父は、表面では放任しているようですが、蔭では、やはり子供の起居動作を見ておりました。へんなおしつけたしつけはしませんでしたが、筋の通らないことは厳しく叱りました。

 大森時代、父は手許に大勢の治療患者を置いて、その世話をしていましたが、そういう患者のためには、食事の献立も十分吟味して与えていました。ですから、私たち子供は贅沢は許されず、魚といえば、たまにしか食べさせてもらえなかったものでした。

 毎日のように患者が詰めかけて、ときには子供部屋まで占領されてしまうような日もあって、父はその人たちのために全エネルギーを使っていました。そういう父を見ていて、たとえ、毎日々々のおかずが目刺しとお新香であったとしても、私はそれを不平に思ってはいけないのだと、少年ながら自分に言いきかせて来ました。

 私が二十一だったか二十二の時だったか、タバコを喫い出しました折、父から『まだ早い』と言われたことがあります。父は三十まで喫まないと決めていて、その通り三十まで喫まなかったそうです。

 いまの若い人は、成人式を迎えると、もう大人になったと、なんでも大人の振舞いをしますが、父は、『いくら大人の年令に達しても、精神的に子供だったらしようがない。だから、おまえが二十一で喫むのは 生意気だ。まだ早い』と言ったのです。

 さて、絵のことですが、父は、私が少年のころ、よく屏風に絵をかいていました。桃の実とか、月などを描いて余暇を楽しんでいました。

 また、白扇にもよく絵をかかれて、昔から絵をかくことは好きだったようです。

 玉川の上野毛で、盛んに観音様の絵をかいておられたころ、私がある本に載っていた菱田春草の絵を写して描いたことがあります。父は、それを見て、『なかなかよく描けている。ちょっと貸してくれないか』と言って、持って行かれ、それを参考にされたことがあります。

 私が多摩美術学校に行っているとき、父はよく私の絵を批評してくれましたが、ほめるよりも辛辣な批評をすることが多かったようです。仮に、はり絵とか美人画をかけば、それに対して、『浮わついていて、なんか軽い』とか、『まだまだ若い』と言われました。

 父の批評は、絵そのものの批評より、その絵を描く前の、こちらの精神状態を問題にしました。ですから描く前の精神状態を衝かれて、私はいやというほど心の訓練をさせられました。言われてみると、やはり心の出来ていないことが、自分でもよくわかりました。

 あるとき、美人画を見せましたら、『これでも美人画かね』と、痛烈に言われてしまいました。そこへ母が出て来て、「お父さまは、絵の批評じゃなくて、気持の問題をおっしゃっているのだから、気にしてはだめよ」と慰めてくれました。

 いつか、絵について、父と言いあったことがありました。私が「模写はきらいです」と言うと、父は、『模写をやった方がいい。模写をして自分の腕が固まってから、新しくやりなさい』と言うのです。その点、私はどうも他人のまねをするみたいで、ずいぶん抵抗しました。しかし、修業の途上では、それも大切なことで、結局父に従って模写の勉強もしました。

 父はよく、『ほんとうに絵がわかるのは、六十になってからだ。それまでは勉強するんだ』と言ってましたが、若い人の気持そっくりのことを言われるので、“新しい人だなあ”と感心することがありました。

 また、父は、『画家として大成するためには、ただ生まじめだけの絵を描いていてはだめだ。もっと覇気のある絵を描きなさい。線の細い絵ではいけない。時代を考えて描きなさい』と、いつも言っていましたが、これは私が、院展へ出しても出しても落選ばかりしていましたから、こういう注意があったのだと思います。その院展へは、父が昇天したその年の秋に、初めて入選しました。

 それから、スポーツのことですが、父はスポーツにはあまり関心がなかったようです。しかし、運動神経のある人でしたから、どうして関心がなかったのか、それを私はいつも不思議に思っていました。

 私があるとき、「何が得意ですか」と伺ったら、『柔道が得意だ』と言われましたので、「柔道をやったんですか。そうは見えませんね」と、笑ってしまったこともありました。

 父は水泳のたしなみはあったようで、私の小さい時ですが、家族全部で鎌倉へ行った折、得意になって抜き手で泳がれたことが記憶に残っています。