書籍

各地への旅行

 昭和一五年(一九四〇年)一二月、教祖五八回目の誕生祝いの時から、当局の執拗な干渉、弾圧を避けるため、宝山荘で会合することをやめ、その代わりとして「会食会」の名のもとに、ホテルや料亭で教祖の指導を仰ぐようになったこと、ま …

『明日の医術』発刊

 時代はさかのぼるが、昭和一五年(一九四〇年)一二月、第二次・玉川事件の発生によって、教祖はそれまで岡田式指圧療法の名のもとに続けていた布教活動をみずから断念した。  このため、神霊による治病救済力を授ける講習も、弟子た …

仮の姿の救済活動

 昭和一五年(一九四〇年)、第二次・玉川事件の後、それまで教祖が直接手を下していた講習やお守りの取り次ぎを許された弟子たちは、中島、渋井、木原、坂井、荒屋など数名の幹部であった。坂井は東京で、木原は九州で、荒屋は岩手県一 …

敗戦の予言と疎開の勧め

 昭和一六年(一九四一年)も暮れに近い一二月八日の未明、ハワイの真珠湾奇襲を敢行し、世界の列強を相手に戦闘状態に突入して以来、緒戦の多大な戦果に勢いづいた日本は、南洋諸島からインドシナ半島、さらにインドネシアへと、次々に …

大戦の末期

 昭和一七年(一九四二年)六月、ミッドウェー海戦での大敗のため、戦局は急速に不利に傾いていった。  そうなると、わずか数か月前までは輝かしい戦果であった占領地が、そのあまりの広さゆえに、日本軍の上に重くのしかかり始めた。 …

聖なる地へ

 教祖は早くから信者に疎開するよう勧めたが、昭和一九年(一九四四年)にはいると、今度はみずから積極的に移転先を探すようになった。もちろん、これは単なる疎開ということではなかった。教祖が東京を離れるということには、神業上の …

神山荘と東山荘

 そうこうするうちに、よい出物の話が二つはいってきた。初めの一軒は心にかなわず、それではと案内された二軒目の家は、戦前、財界の重鎮、藤山雷太が建てた強羅の別荘である。強羅は、教祖がとりわけ愛し、大正末期のころ、貸し別荘に …

監視

 教祖が玉川から箱根、熱海へ移転してからも、官憲の目は執拗にその動向を追い続けた。戦争が終結し特高警察や憲兵などの監視体制が崩壊するまで、教祖 要注意人物、危険分子として扱われたのである。教祖が東山荘を入手すると、その情 …

終戦

 戦局はいよいよ激しさを増し、昭和二〇年(一九四五年)二月、アメリカ軍は硫黄島に上陸を開始し、一か月の死闘の後、ついにこの島を占領した。  一方、ヨーロッパ戦線においても、すでに昭和一八年(一九四三年)九月には、イタリア …

「日本観音教団」発足

 終戦後しばらくの間、神業は民間療法の形によって続けられていた。しかし、その後間もなく、アメリカ占領軍が、当時の日本の思想を調査し始めた。「日本浄化療法普及会」もその調査の対象となったが、その時調査に来たのはニコルスとい …