書籍

第一次・玉川事件

 大宮警察署では翌日釈放されたが、すぐ続いて、今度は地元の玉川警察署から医療妨害のかどで教祖と清水が呼び出しを受けた。清水はその日に帰されたが、教祖は八月一〇日から二〇日まで、一一日間留置され取り調べを受けた。この医療妨 …

「観音百幅会」と「富士見亭」

 昭和一一年(一九三六年)八月以降、玉川の本部は玉川郷の名称を改めて、新しく宝山荘と名付けるようになった。この背後には本部の名前一つからもその宗教的色彩を取り除こうとした意図が感じられる。しかし、この後もなお宝山荘は、昭 …

治療活動の再開

 昭和一一年(一九三六年)の秋のことである。当時、郷里の盛岡に帰って神業に協力していた医師の竹内慶治郎は陸軍中将・八角三郎を荒屋に紹介した。八角の娘の病気を治してほしいというのである。荒屋はこのような有力者がすがってくる …

光を求めて

 療術行為を許された教祖は、一年三か月の空白を取り戻すべく、懸命の努力を続けた。このころ、後に「日本観音数団」の管長となった渋井総斎(本名・総三郎)が入信している。渋井は明治一九年(一八八六年)、埼玉県北埼玉郡の生まれで …

第二次・玉川事件

 このように、教祖みずからの働きとともに弟子たちの活躍によって、岡田式指圧療法はますます発展し、浄霊を受ける人々は各地で増加の一途をたどっていった。ことに本部の宝山荘では、昭和一五年(一九四〇年)の夏から秋にかけて、番号 …

奇蹟の書画

 立教以来数年にわたり、教祖は布教の手本を示してきたのであったが、ようやくこのころには、教祖の教えを体し、布教のできる弟子たちが数多く育ってきていた。ちょうどこのような体制が整えられた時に教祖は第一線を退き、それまでみず …

「会食会」の名のもとに

 昭和一五年(一九四〇年)一二月二三日は教祖五八歳の誕生日であった。その日の『日記』にはつぎのような記事が記されている。  「誕生日にて東中野、日本閣へ招かる。吾とよし子の外計二十五人なり。新体制の食後、歌笑冠句等ありて …

家庭生活

 教祖は困難な時代の中にあって、その時その時に可能な最良の道を求めつつ神業を進めていったが、同時にまた、一家の家長として家族への心配りを忘れることはなかった。  子供たちに対しても、教祖みずから実行していることを教えるの …

自然農法

 昭和の初め、神示によって教祖は、新しい文明の創造こそ緊急の大事であり、しかもそのことがほかならぬ自分自身の使命であることを覚った。この覚りに基づいて、真っ先に手がけたのは「神示の健康法」であった。そして長期にわたる研究 …

鉱山経営

 教祖は一生の間に、さまぎまな事業を手がけたが、その一つに鉱山の経営があった。その着手は「大日本観音会」立教の年、昭和一〇年(一九三五年)の夏のことである。当時、浄霊によって病気を救われた人々の中に中根由紀子という女性が …