救世の光 雨に濡れた緑の古都、奈良の三月堂(法華堂)の本尊の観音(不空羂索<けんじゃく>観音─一丈一尺九寸の立像、天平仏である)を仰いで佇む。胸前のやわらかい金剛合掌を中心にして、上下とそして左右の均整が集約されている。美しい緊張を保つた集約の線の中心から、統一の力がふくよかにもりあがるボリュームのなかに透視されて、優雅な力感をおぼえる。【第三の眼より】 東方の光 今から約二千年前位と思うが、ヨーロッパの一隅〈いちぐう〉から東方の光という言葉が生れ、段々拡〈ひろ〉がって今日は世界中知らぬ者はない程であるが、今日まで言葉の意味が本当に分らなかった為、今尚謎のままになっているのであるが、私はこれについて真の意味を知らせようと思うのである。【東方の光より】 景仰 明主様は、明治十五年十二月二十三日にお生まれになられましたが、その日は冬至の翌日で、俗に畳の目一つずつ日が延びていくと言われておりますように、陰から陽に向かうという、そういうお日柄にお生まれになったということは、やはり世の中に光を掲げるためにご出生下さったということがよく判るのであります。【陰から陽に向かって】 渋井総裁伝「御用の人」 「笊<ざる>で水を汲んでみよ」 禅問答のような明主様のこのお言葉は、このご面会の数日前に教団最高幹部が集まった席で発せられた。居合わせた幹部たちはいかに明主様のお言葉とはいえ、とうてい無理な話で、いずれ何らかの説明があるものと思っていた。【明主様にお仕えするということ】 『天津祝詞』『善言讃詞』『神言』 のてほどき ご参拝のさい、一般に「天津祝詞」を奏上し、特別の祭典時に、「神言」をあわせ奏上するを例とするが、このふたつの「のりと」は、日本民族が、その古神道信仰の唱え言葉として、昔から、伝統的に奏上してきたものであって、その起源については、にわかにこれを定めることができないほど、古いものとされている。【序説より】