明主様は美術品購入にはとても熱心であった。資金不足で思うようにいかずお困りの時もあったようであるが、どうしても入手したい名品を美術商が持参すると結局購入することを決意された。名品、逸品の海外流失を防ぎ、美術愛好家だけでなく多くの人びとを楽しませるために、どんなことをしても入手された。初期にはその代金のほとんどは總斎から届けられたのである。
当時、明主様が起居されていた熱海・清水町別院の近くに、總斎は熱海の布教拠点としての自宅を早くから購入していた。明主様はそのような場合、夜八時頃よく總斎をお呼びになられ、
「よい美術品があるのだが……」
と、ご相談された。
当然、總斎をお呼びになって話されるくらいだから、たいへん高額な美術品である。しかし、總斎はどのような時でも、いかに多額であっても快く承諾し、地方を飛び回っては期日までに必要な額を届けるのである。夜であればいつも總斎は着物姿であったのだが、明主様が總斎をお呼びになる時には、サージの紺の前掛けをして明主様の前に参上した。總斎は公私にかかわらず明主様に会う時は、明主様にお仕えする気持ちを忘れず持ち続けるため前掛けをしていた。 總斎が明主様に捧げた物質的な奉仕は、他に類を見ないほど桁外れな大きさであった。もっとも身も心も明主様に捧げ尽くしていた總斎であるから、この世でできる経済的、物質的なご奉仕は總斎にとって人間として限界を超えると思われることでさえ、当たり前のこととして喜んで行なったのである。
例えば、昭和二十七年、明主様は海外流出の危機のあった「樹下美人図」(重要文化財・MOA美術館所蔵)をたいへん高額で購入された。この御用を承ったのも總斎であった。この時すでに總斎は教団の一線からは身を退いていたのだが、このような御用ができるのは總斎をおいては他に誰もいなかったのである。熱海の梅園の西山麓に広がる、二万坪の總斎の所有地を売却し、その代金を明主様のお手許にお届けし、その御用に充てたのである。
明主様が必要とされ、望まれたものは、神様の思し召しと確信し、どんな困難があろうとも總斎が全力を尽くし手に入れた。また不思議に總斎の許には金品財宝が集まった。当時の信徒は、總斎はまさに教団にとって大黒様であったと述べている。