昭和二十五年のある日のことです。ご浄霊とご指導をいただくために、お邸に参上しました。
「きょうはお邸が静かですね」と申し上げたところ、『ああ、家の者が休みをほしいと言うものだからね。きょうは休ませたよ』と静かな笑いをたたえておっしゃいました。
私がケゲンな顔をしているので、さらにお言葉をおつぎになって、『神様は、私があまりにも忙しいので、休むようにされたんだ』と、しごくあっさりとお話になりました。
私は何か申しわけない思いで、「私たちがもっともっとしっかりしなければならないのに、思うように発展しませんで」と申し上げると、『いまの人たちは、朝はおろか昼になっているのに、まだ雨戸を締めた部屋の中が、一番いいと思っているんだから仕方がないよ。かといって一度に雨戸を開けると、目がクランでしまうからね』とおっしゃった後、『私だって弾圧を受けたり、いろいろの障害にぶつかるとたまらない気持になるが、あせりを殺すのが、いまの修業だよ。長い目でみると、その方が遅いようで早いんだよ。私のやることには失敗と後戻りはないからな。世間の人のやることは早いようでも失敗があるから、差引するといくらも進んでいないことになる。しかし私だって、いまにみろ、箱根や熱海が完成すれば、アッと言わせてやるからという意地はもっているよ』と唇を固く結ばれました。
まことに淡々としたお言葉でありましたが、奉仕者に快く休日を与えられ、ご自身も、神様が休ませて下さったとおっしゃって、あのお忙しい明主様が、平然となさっているお姿を拝見して、焦りを殺す修業という意味も、この時、一層判らせていただいたような気がしました。