昭和十四年の暮でした。当時私は東京中野のある小学校の教師をしておりましたが、生徒の父兄で高橋という会社の社長をやっている人がいて、その人から、岡田という人が変わった療法をしていることを聞きました。
それで私も好奇心から玉川の大先生(明主様)のところへ出かけました。そして、そこで大先生が大勢の患者を治療しておられるのを拝見しました。
そのあと、大先生は私は個室へ呼ばれて、『私は一切の宗教を救い統一するんだ』という意味のことを言われました。
これを聞いて私は、「大きなことを言う人だなあ」と思いました。
その時、私が、「毎日悠々自適の生活でお暇でしょう」と申しますと、大先生は、『いやあ、毎日目のまわるような忙しさですわ』と言われたことを憶えております。
それから昭和十六年の春まで何回かお屋敷に伺いましたが、井上(茂登吉)さんに会っただけで、大先生にはお目にかかりませんでした。
その後、私は中野から玉川小学校に転任になりまして、そのご挨拶にお屋敷へ伺いましたが、その翌日でしたか、早速井上さんが学校に見えまして、「大先生が一度来てほしいと言っておられますから」という伝言でした。
そのとき、私は内心“家庭教師の依頼だな”と思いました。
あくる日お屋敷へ伺うと、案の定、家庭教師になってくれということでした。しかし、当時教員で家庭教師をすることはやかましかったので、一旦はおことわりしましたが、先方は熱心で何度かお使いが来たりしましたので、一カ月ほど考えてお引き受けしました。たしか十六年の五月ごろだったと思います。
それからお子さまの勉強を指導したわけですが、その指導ぶりについて、大先生が非常にお喜びになっておられることを、井上さんから聞きました。
さて、大先生にお目にかかって一番感じたことは、非常に話上手でいられたということです。相手を見て、それに合ったように話されることには感心しました。
それはいろいろな人が治療に来られ、その人たちに相手になっておられるのを側で見聞きしたことがありますが、全くその人、その人の立場になって話を合わされることには感心しました。私の場合でもやっぱり同じことです。
大先生は非常に凡帳面な方で、家庭教師のお礼として毎月二十一日になりますと、半紙に「薄謝」とご自分で書かれたものを直接私に渡して下さいました。そして、お子さま方が学んでおられるところを時々覗かれて、とても喜んでいらっしゃいました。時には、奥さまを中心にして私がお子さま方と話し合っているところへ、はいってこられて、『なかなか賑やかですね』と声をかけられ、ひとしきり話相手になられることもありました。
家庭教師は一力年ほど続けましたが、私が初めてお屋敷へ伺った時、大先生が石をけりながら庭を散歩していらっしゃいましたのを見て、あとで短歌に作ったのがあります。
朝まだき 石けり給えば広庭の 草とも踊りて生きて踊るも