私は昭和八年ごろ、大本で出している「愛善新聞」の配布担当係として、郷里の鳥取県の在から東京へ派遣されて来ました。そして、大森の支部(明主様はその支部長)へ伺い、初めて先生(明主様)にお目通りしたのでした。
先生は、大本の一方の旗頭で、特異な存在でした。
当時、大森のお屋敷の中に別棟があって、そこがいわば新聞配布係の宿舎に当てられてあったのですが、私が伺った時は、男女五、六人がそこに寝起きして、新聞の拡張に精を出していました。
私は、先生のお名前だけは、大本の機関誌に載る短歌で、前から存じ上げていましたが、初めてお目にかかって、まだそれほどのお年でもないのに、ずいぶん髪の白い方だなあと思いました。これまで郷里で見たこともない真っ白なおつむだと思いました。
そして、お会いした瞬間、何かパッと来るものがあって、“これは特別のお方じゃないか”と思いました。
私は毎日、ほんとうに気分よく働くことが出来て、他の支部へ移ろうなどとは一度も考えたことがありませんでした。特に、支部のお祭の時など、先生のお話が伺えるのを、私はどんなに楽しみにしていたことでしょう。
私は先生のお側で働けるという喜びで、毎日朝から夕方まで、くたびれた洋服を着て、街から街を歩き、戸別訪問しては、「愛国運動のためですから、ぜひ買って下さい」と、新聞を配布し続けました。
私は先生から、“坊ちゃん”というニックネームをいただきました。それは私がいかにもボンボンみたいで取柄のない男だったからでしょう。先生との直接の交渉はあまりありませんでしたが、先生から短冊をいただいたこともあり、陰ながら、かわいがっていただいていたと自負しております。
この新聞の配布ということについて、先生は終始積極的で、『これも神様の御用なのだ。出来るだけ売りなさい』とおっしゃっていましたし、私たちも割り当て以上を売ることを目標にしていました。
しかし、経済的にもお苦しいことがあったかもしれませんが、先生は、『必要な時には、ちょうどよく金がはいってくるんだ』とおっしゃっていました。事実、私のような者が拝見していても、窮すれば必ず通じたような、そのころのご日常だったと思います。
ご夫婦仲もよく、映画や散歩にもご一緒に出られるし、奥さま(二代様)が、「センセエ……」と言われるお声の柔らかく甘いこと──いまでも耳に残っています。
先生は、その後(昭和十年一月から)「東方の光」という機関誌を出され、ほとんど先生おひとりで執筆されました。お蔭話などは別として……。
先生のお教えは一生忘れないつもりです。今日も、私の心の支えは先生とそのお教えです。『怒るな、焦るな、あわてるな』といつもおっしゃっていましたが、愛情の権化のような先生こそ、昔も今も私の忘れ難いお方です。