つぎに大切なのは、この祝詞の内容に対する心構えである。美しい言葉で表現されている理想世界の様相は、まことに夢幻的なものであり、はたして実現され得るかどうかということである。
もしそれ、これは単なる人類の憧れであり、果たされることなき夢を追うものと考えるならば、その奏上される言霊は力弱きものとなるであろう。そこには、全信者が、大神のご神力によって必ず実現されるものとの深い、堅い信仰的な確信がなければならないものである。
明主様は、これについて、かつて、『二十一世紀』というご論文をお書きになられたことがある。それは、ある信者が、百年間眠っていたが、ある朝ようやく目がさめ、それと同時にあまりに世界が変わったことにおどろいたという仮定で書かれたものであるが、それは、まことに、この祝詞の内容を具体化するものであり、日常生活から、食物、交通、経済、社会、外交、政治にいたる百般の具体的な未来記であり、いずれ時がきて発表されることを期待するものである。
『私はけさ六時に目がさめた。それは枕の中から微かな音楽が聞こえるかと思うと、だんだん大きくなって寝ることができないので起きたのだ。ナーンだ枕の中に目ざまし時計が仕込んであったのだった』……というような書き出しであったが、その冒頭に、
『私のつねに唱える地上天国とはいかなる世界であろうかということはよく聞かれるのであるが、これについて、私は一九二六年神示によって知り得た一世紀後の世界の状態であるが、いままで幾度書こうかと思ったが、どうも時期尚早のような気がして今日にいたった。……しからばこの神示の未来記とははたして実現されるべきや否や、これは読者の想像にまかせるが、私としては必ず実現すべきことを確信するのである』と仰せられている、明主様の確信されたるものを、明主様を教えの祖として信仰する私たちが確信し得ないはずはない。
美しく象徴的に言霊の力を強めてお作りくだされたこの善言讃詞を、その具体化された理想世界の一日も早く世界全人類のうえに実現されんことを願い信じつつ魂の底から奏<の>りあげたてまつるところに、救世のご神力はいよいよ輝きまさることをわれらは信じなければならない。
ちなみに、一九二六年とは、昭和元年十二月の終りに、明主様がはじめて啓示を受
けられて、本教樹立の決心をされたときを指すのである。