前述のごとく、明主様はこの祝詞をお作りになられるに際して、『観音経を縮めたものです』と仰せられているが、申すまでもなく、観音経とは、妙法蓮華経(一般には法華経といわれている)二十八章中の第二十五番目の観世音菩薩普門品を指すのである。
法華経はひとり仏教の信仰や哲学に大きな影響を与えたばかりでなく、仏教芸術や文学にも大きな刺激を与えたものであって、多くの宗派においては仏教諸経文中の最高中心にあるものとされているが、こうした位置づけを与えた人は、往昔<おうせき>中国においては天台大師であり、わが国では聖徳太子であるとされている。
聖徳太子が法華経を解釈した「法華義疏<ぎしよ>」は今日宮中に御物<ぎょぷつ>として残っているが、その開巻の始、内題の下には、「これはこれ、大委<やまと>の国、上官王<かむつみやのみこ>の私に集まるところ、海<わた>の彼<あなた>の本<ほん>にはあらず」と記されてある。これは、どこまでも太子ご自身の解釈であって、中国伝来の仏教的解釈によるものではないと明言されているわけであるが、観音経はその法華経の中でも最重要のものとされ、また一般にも、それ自体単独の経典として世に行なわれてきたものであって、明主様がこの観音経を採りあげられ、これ
を基<もと>いとして神道的な祝詞をお作りになり、天津祝詞とともに神前奏上詞としてご制定になられたのも、太子同様独自の解釈によられたものであって、従来の仏教的な考え方とは、軌を一にするものではもちろんあり得ないのである。
そこで問題となるのは、一般仏説にいう観世音菩薩と、本教の神観における主神との関係であるが、これは教義上本教独自であり、かつ、重大なる問題を含むものであって、とうていかかる小冊子において論述さるべきことではないが、この祝詞にみる明主様のお考えは大光明真神は主神の代表神、表現神(顕現神<けんげんしん>) であり、観世音菩薩は主神の化身仏であるということであろう。
もちろん、仏教においても、観音は阿弥陀に対する脇士として弟子とするもの(顕教の解釈)もあれば、阿弥陀の化身とするもの(密教の解釈)もあるが、その意味からすれば、明主様も化身ということでは密教的解釈に近い立場に立たれたものともいえるのであって、お言葉に
『観音様は仏であり、光明如来も仏であるのに、それに神主の服をつけ祝詞を奏<あ>げたりするのは、ちょっと変かもしれないが、観音様は菩薩から出世するのではなく、一時菩薩の位<くらい>に衆生済度<しゆじようさいど>のためさがられたから、元の上の位に戻られるのであって、一段上の位が光明如来、それから大光明真神になられる』
とあるがごとく、観世音菩薩、光明如来、大光明真神と、み名は異なっても、すべて主神の顕現神として同一のご神霊であり、時期に応じて出世され、それにしたがってご神霊の活動も広まり強まっていくと明確に教えられておられるのである。