昭和二十六年八月二十八日 『御教え集』一号 (11)

御教え 『文明の創造』も医学だけはだいたいできあがったんですがね。医学と言っても体的の方面ですね。それだけは書きあがったようですけれども、これから霊的のほうを書こうと思って書き始めたんですが、霊的を書くにはどうしても宗教と別に離すことができない。それでだんだん宗教の説明になってくるわけです。

 いま医学の欠点をいろいろ説明しているんですが、これは一種の最後の審判なんです。

 昨日の『読売』と今日の『毎日』に『新しき暴力』という本の広告がありました。あれには付録がつくんです。それは、この間公判のときに私を調べた警察官が証人になり、嘘や作り事、でたらめを言いすぎるから、それをウンと書いて、それに繋がって去年からの、つまり彼らがない罪をつくったやり方やいろんなことをそうとう書いてありますから、それを付録にした。ですからおもしろいと思うんです。宗教の本来のやり方はこうだと言うことも書いた。宗教の意味でやるんだから、別に先方を非難するというような意味はないんです。そういう方面について、とにかくきれいにしなければならないというように書いた。それでいろんな著名人がよく書いてます。昨日の広告にも中島健蔵の評が書いてある。非常に良いことを載せてあるので感心した。

 それから、もう一つは美術館ですね。あれも建築のほうにかかり始めた。どうしても神様は急ぐんですね。来年の夏までにしなければならないというので、そのつもりで始めたんですが、中に陳列に使うケースだけを備えつければいいんですから、割合簡単です。あそこに模型もできてますが、だいたいあの通りで、三階は日本間になる。これは外人が来たとき……ゆっくり良いものを見せるというとき……日本的の気分を出すには必要だと思ってこしらえた。で、おそらく美術館としては日本一になるだろうと思う。こっちの美術館が立派というより、他にある美術館が貧弱なんです。私はたいしたものじゃないと思っていたが、他の美術館はもっとたいしたものじゃない。

 博物館ならばですね。これは建築も立派ですし、品物も多い。博物館の根本的観念は、つまり学問的……考古学的……とかに重きをおいて、美術ということが薄いんですね。そこで、博物館には古いいろんなものはありますが、美術的というものは物足りない点があると思います。それで、私は審美眼で見て、良いものをという方針にした。というのは、仮に正倉院の宝物なんて……ときどきやりますが、みんなたいへん大騒ぎをやって……去年だったか、たいへんな大入り満員だった。新聞のせいもあったが……ところが私も好きで研究しましたが、さて正倉院のを見ても感心するのはないんです。古ぼけたのがありますが、なるほど一〇〇〇年前にこんなものがよくできたというのは感じますが、これを部屋に飾って楽しんでみたいとは思えないんです。ですからアメリカの美術展に百何十点か行きましたが、これを理解できるのはないと思います。三分の一くらいでしょう。ただ、古いというのですね。古いというのは美術的より、よく保存されてきた。というそれを感心するわけですね。だから私はよく言う。これは「保存の美術だ」とね。そんなわけだから、私はあえて古いものにこだわらない。現代のものでも美術的の高いもの、それは陳列するつもりです。だから、ただ古いものに捉われるという……一つの妙な癖をみんな持っているんですね。それで、そういう点も大いに直したいと思っているんです。まあーできて陳列したら分かりますがね。

 だれが見ても理解できるということを主眼にした。だいたい美術の目的というのは、人間が美術を楽しんで、知らず知らずに霊的に高くなる。趣味を高めるんですね。その人の魂を清めるには非常に良いわけですね。それでないと、いまのようにパチンコ屋だとか、ストリップだとかたくさんありますからね。いけないとは言いません。少しは良いですが、もっと高いものを見せなければならないというわけです。一般人が見て理解ができなければならないですから……考え込んだり、 うなったりしては、 やっぱり駄目ですからね。目のきいた人でも、そうでない人も楽しめる……それに引きつけられる、というようなのでなくては本当の意味はないと思います。そういう方針でやろうと思っている。

 それから、いまやり始めているが、裏手のほうですね。あっちもウンとおもしろいものを造る……あっと言うものを造るつもりですが、あんまり精しく言えないが。それでだいたいここが完成するわけです。

 信仰には限らず、あらゆるものがそうですが、ここが完成しなければ本当の発展がないんです。ちょうど人間で言えば、立派な洋服を着たんだが、まだ靴下をはいてない。跣では歩けないから靴をはかなければならない。ネクタイもしなければならない。そういうわけで……揃ってはじめて人の前にいばって出られるというわけで、完成しなければ、そこに欠点がありますから発展がしない。ですからこのくらいの本山がこれだけ拡がれば、それだけ教線も拡がるものです。ですから、相応の理と言って神様のほうは特にそういうことはやかましい。それから、熱海は体で箱根は霊です。熱海は緯、箱根は経になる。ですからここがすまないと熱海はできない。こっちの建築がすまないと熱海の建築ができない。実にはっきりしている。瑞雲郷の少し先に欲しいのがあるが、それを先に手に入れることはできない。実に順序良く、隣から隣へと次々いっている。ああいうのにも非常に順序がある。

  「神は順序なり」と言ってね。順序を乱したりしているから、いまの世の中は非常に乱れている。そういうことを知らないんですね。そういうわけで、ここができなければ熱海はできない。それから、ここも将来大きな本山にする所を買ってありますがそれも順序があります。ここができて、熱海ができて、それからまたここが(本山)それからは小田原にできるか、京都が先になるかもしれないが、そういう順序になる。これは大きい順序です。

 人間の個人としてもやはり順序がある。だから私は、順序だけはやかましく言いますが、浄霊のときもそうです。一番先に重病人をやり、それから軽い人にいくか。来た順序にするか。来ている人の年とった人からやる。それから、男と女だと、男を先にする。そうすると治りも良い。

 現界で順序をはずすと、霊界がはずれてしまう。そうすると、それが現界に写るから、どうしても滑らかにいかない。だから、なにかやるとかというときは順序を注意するようにする。

 いつも言う通り、そのときの目的によって、神様に対する物事は一番先にしなければならない。神様の所に行くときに、他の用事をしてから行くといけない。そうすると人間の用事が先になり、神様のほうを下にみることになる。そういうときは、むしろ神様のほうに行かないほうが良い。そういうことについてつまらないことですが……いつか、私が玄関から出ようとすると、叔母が横切った。それで車に乗ったが、叔母も乗ったが、車が走り出すと、それがとても気持ちが悪い。それで、伊豆山から水口まで後戻りして一度家に入り、それから改めて東京へ出直した。そういうときにそのまま行くと、自動車に故障がある。それは霊界が違っちゃうからです。しかし、あんまりうるさくするといけないが、肝腎なことだけは心得ておくと良い。

「『御教え集』一号、岡田茂吉全集講話篇第四巻」 昭和26年08月28日