昭和二十八年十二月二十六日(2)

▽前節から続く▽

 それで建築ばかりでなく、あそこに行って、みんな見て分かるでしょうが、いま道路を作ったり木を植えたり、いろいろやってますが、それは二、三度行って、三〇分か一時間まごつけばすっかり分かるのです。だから考えたり迷ったりすることは、ほとんどないです。歩くうちにチャンと分かるのです。これは自分でも始終不思議に思ってますが、それがまたおもしろいのは、時期時期に応ずるのです。必要な時期が来るとすぐに分かるのです。時期が来ないうちは、なかなか分からないのです。ヒョッと見て分からないときは、これはまだ時期が来ないからだと止《よ》してしまうのです。時期が来ているとすぐ分かるのです。ですから、ずいぶん難しい所があって、どうしたらよいかなと分からないことがあります。そういうときは止して時期を待つのです。そうして時期がいま決めなければいけないというときになると、はっきり分かるのです。いまやっている美術館の所から展望台に行く道路ですが、そこのところがふつうはちょっと分からないのです。非常に急勾配になっているし、どの辺からどういうようにゆくかということが、ちょっと見当がつかないのですが、それがちょうどその時期になってきたので、この間二度ばかり行きましたが、実によく分かりました。その道ができると自然に無理がなくゆくのです。そういうようですから、神様の仕事というのは実に不思議なような、おもしろいような、変なものです。なにからなにまでそういう具合で、美術品にしても、こういう物があればよいな、こういう物が来ればよいなと簡単に思ってますが、それも、あれはとても手に入る物ではないと思っているうちに、時期が来るとスラスラと入るのです。それで入ってから、これはこういう展覧会をやらなければいけないのだ、ということが分かるのです。そういうことを話しているときりがないが、それはおもしろいものです。来年は会館と展望台の上の水晶殿《すいしょうでん》ができますが、これがまた評判になるだろうと思ってます。おそらく世界にないです。私は前に写真でアメリカでのガラスの家を見たことがありますが、これは円形というわけではないので、ただ凸凹《でこぼこ》したガラスの家なのです。最近できた建築で作ったのを見ましたが、三尺幅の平らなガラスで、太い木の縁《ふち》がついて丸くなっているのです。これはたいして珍しいやり方ではないのです。今度できる水晶殿は六尺幅のガラスを曲線にして接《つな》ぎ合わせるのです。接ぐのもなるだけ目立たないように工夫するつもりです。もし間に入れるとすればジュラルミンかなにかを入れるつもりです。それでガラスでは日が当たるとチカチカして景色が見にくいですから、プラスチックの透明なのを使うつもりです。それで、今度は美術館もガラスでなくプラスチックでやるつもりです。ガラスですと、光線が当たるとチカチカして、少し離れて見ると中の品物が消されてしまうのです。近代美術館ですが、ガラスを立てるとチカチカするから斜めにしてあります。見た感じが、なんだか安ッポイような、地震のときにガラスが外れそうな感じがします。もっともアメリカあたりの美術館はガラスは使わないそうですから、できるだけ幅広くしてプラスチックでやろうと思ってます。またそのほうが壊れる憂いがないです。水晶殿も、下からの高さから、屋根の具合も、全部私が設計しました。これはなかなか難しいのです。屋根は円形で平らです。最初の設計よりもできるだけ広くしました。なぜといって、ずいぶん人が来るでしょうから、一〇〇人ぐらい入ってゆったり見れるぐらいの大きさです。道も後戻りをしないで見られるように工夫したのですが、いろいろな道の具合も、なるほどと思うようにつけたつもりです。まだいろんな細かいこともありますが、それはできてから見るよりしようがないです。

▽次節に続く▽

「『御教え集』二十九号、岡田茂吉全集講話篇第十一巻p326~327」 昭和28年12月25日