創造性に富んだ方

 私が岡田商店へはいったのは、大正二年でした。

 当時は装身具の卸の店でしたが、岡田先生持ち前の創意工夫によって、次第に同業者を凌駕していかれました。

 先生は、そのころ日本髪の装飾としては割貝、金板、金肉といったものを考案され、それを櫛笄に施されて売り出されたのでした。また、洋髪品は先生の新案になるM式(茂吉のイニシャル)とか、ブライトというのを売り出されておられましたが、M式の方は実用新案特許をとっていました。

 これは金属性のものを型打ち(桜とか菊の模様)して、それに金粉や銀粉を吹きつけて装飾台にはめこんだもので、当時としては他店にはない珍しいものでした。

 また、ブライトは古い色硝子を特殊加工したもので、これが後日の旭ダイヤに発展するヒントとなったものでした。

 この旭ダイヤは、世界十カ国の特許をとって、塚本という英語の出来る人を雇ってアメリカにまで派遣しましたが、個人商店としては、あまりの奇抜さに、同業者仲間がアッと驚いたというすばらしい創意工夫でした。そして、旭ダイヤによって、岡田商店は一躍卸問屋のトップに躍り出ました。

 先生のやられることは、いつも実に独創的で、新しい製品をどんどん考案されることはもちろん、制度を改めて独特の経営法をおとりになりました。これは今日でこそ珍しくはありませんが、そのころとしては一挙に商売仲間を追い抜き、斬新な手をつぎつぎ打っていかれたものでした。

 当時、外国製の自家用車を購入されましたが、相当クラスの社長、重役ですら持っていない時代ですから、兜町あたりでもかなりの評判になりました。

 もちろん、これは、ただの贅沢だけで買われたのではなく、取引の能率化をねらってのことでした。

 大正七、八年のころ、同業者たちはすべて人力車を使っていたのでしたが、それではとても目のまわるような忙しさに追いつけません。そこで能率上、無理をしてでもと買われたのでした。

 このように、岡田先生は非常に目の効く、多角性をもった方で、普通の商人とはちょっと違ったところがありました。

 といって、何にでも手を出されるから一途の商売熱心さがなかったかといえば、そうではなくて、大事な急所急所だけはチャンと握っておられて指示されますが、細かいところは、すべて部所々々の店員に任せて、のびのびとした経営法をとっておられました。

 要するに、使っている店員は徹底的に信用されておられましたから、“おまえたちのいいようにやってくれ”と任せっ放しです。

 しかし、無放任と違いますから、店員の待遇は常に考え、最善の方法で商売が出来るよう、実に天下一品の人使いをしておられたように思います。この人は信用出来る人だと思うと徹底的に信用されるご性格で、店員ばかりでなく、一時経営された映画の永代館や株の方のことでも、すべて吉川さんという人に任せておられました。
そして徹底した信用の仕方で、実印まで吉川さんには渡しておられました。

 ですから、悪いことをしようとすれば、いくらでも出来たわけで、後には吉川さんに、ずいぶんひどい目に遇わされました。しかし、いくらひどい目に遭っても相手を責められることなく、結局は自分が信用しすぎたからいけなかったのだと、恨むようなことはされませんでした。

 吉川さんは、最後にある料理屋で服毒自殺をされましたが、その時も同情こそすれ、ひと言も恨まれず、葬儀にも参列されたほどでした。

 私がお店にご厄介になっているうちに、店員では一度も間違いを起こしたことはありません。

 先生は実に意欲的な方でして、営業面では一度も損をしたことはございません。

 新規の地方を開拓する時には、出発に当って、先生から注意や指示があるのです。

 その方法を申しますと、まず初めての土地へ売り込む場合は、『その土地の商工会議所を訪ねて、土地の老舗を聞け』と言われるのです。

 ですから、地方の取引先は格式のあるお店ばかりで、自然と、岡田の商品は全国的にも有名な店にしか売っていない上物になるわけです。従って、ますます評判になるというわけで、実に商売上手でした。

 先生はいつも、『得意先をふやすのも、信用をうるのも、商品ひとつである』とおっしゃられ、商品に非常に力を入れておられました。

 ですから、新しい物をつぎつぎ考案され、岡田の品物はこういうものだと商品で勝負に出られ、人を惹きつけておられたように思います。これが先生の商法のコツといえばコツでしょうか。

 とにかく実に創造性に富んだ方で、いつも考えごとをしておられました。

 後年、偉大な宗教家におなりになり、私も時々ご挨拶に上がりましたが、岡田先生は、私が昔の恩義を忘れないでいてくれるということを非常に喜ばれ、いつも丁重なもてなしをして下さいました。

 岡田先生が信仰一途のご生活にはいられてから、ある日伺うと、昔の商売を振りかえって、こんなことをおっしゃいました。

 『きみ、よかったよ。私がいまも装身具をやっていたのでは、とてもこれだけの人間にはなれなかったよ』と……。

 そして、つけ加えて、『宗教は一廻りも二廻りも舞台が大きい。なにしろ世界が相手だからね』とも言われました。