『御垂示録』二十三号 昭和二十八年八月一日(1)

 最初に一言話したいことがあります。これは分かりきった話なのですが、どうも一番困るのは、いつも小乗信仰はいけないいけないと言っているのに、どうも小乗信仰の人が多いのです。小乗信仰にもいろいろありますが、一番よくないのは「あの人は邪神だ」とか「あそこの家には邪神がいる」とか言うことですが、これが一番悪いのです。ですから私は「人を邪神と言う人は、その人が邪神だ」と言ってありますが、邪神である邪神でないということは、決して人間に分かるものではありません。神様以外には分かるものではありません。それを分かると思うのは、神様の地位を犯していることになります。ただ自分が邪神にならなければよいので、人が邪神であろうがなかろうが、大きなお世話です。それからもう一つは、邪神を恐れる人があります。「あの人は邪神が憑いているから注意しなければならない」とか「あそこの家には邪神がいるから気をつけなければならない」と言うが、たいへんな間違いです。そうすると神様のほうが弱いことになります。邪神を恐れるということは、神様を下にみることになります。本当言えば邪神のほうで恐れるのです。それを邪神を恐れるということは、神様のほうが邪神以下ということになります。この間のレントゲンの光が神様の光を通らないということは、神様の光のほうが上だからです。レントゲンというものは邪神のようなものですから、邪神のほうはかなわないのです。ただ、いままでの他の宗教は、ほとんど邪神に負けるのです。しかし救世教の神様は決して負けません。またそのくらいでなければ世界を救うことはできません。ですから邪神のいる所なら大手をふって、自分も行き、人も行かせればよいのです。私は前から「あの人はいけないから来ないようにしろ」とか「行かないようにしろ」ということを言われましたが、私は平気なのです。それはこっちより上のものはないので、みんな以下のものだからです。それを恐れるのは、こっちの力が足りないと思うのです。そうすると救世教の神様に対してたいへんな御無礼になる、というよりか、むしろ認識不足すぎます。ですからそういうことはいっこうに無頓着でよいのです。それは邪神のほうがみんな恐れているのです。その点を間違えないようにしなければいけません。しかも邪神とか邪神でないとかは決して人間に分かるものではありません。なんとなれば、邪神邪神と言われている人が、たいへんなよい働きをしています。それよりも、邪神邪神と言う人が邪神なのです。なんとなれば、自分のほうが恐れるのだから邪神に違いありません。その点を間違えないようにしなければなりません。邪神のほうは救世教の神様をたいへんに恐れているのです。ですから信者に憑って、やられないように邪神が擁護しているのです。救世教の神様がそこに行くと邪神のほうはひどくやられますから、邪神の部下がその人に憑ってやらせるのです。ですから人間の考えはほとんど逆が多いです。

 それから人間の理屈ではとうてい分かるものではありません。神様のほうは実に深いのです。たとえてみれば、医者は邪神と思うでしょう。健康な体を薬で弱らせたりして、結局命までとるということは、とんでもない邪神です。ところがその邪神のために救世教というものが現われたのであるし発展しつつあるわけで、もし医者が片端から病人を治してしまえば、救世教は発展しません。救世教がドンドン発展していばれるということは、医学という邪神のためなのですから、そうなれば邪神というものは、たいへんなよい働きをしているわけです。しかしなにもわざわざこっちでそういうように計画的にやるわけではないので、そういうようになっているのですから、それを良いとか悪いとか批判することはできませんが、そういうようなものです。だからいつも言うとおり、いままで教団でも、邪神のためにずいぶん助かったり、ずいぶんよい功績があります。だから、良い悪いは言ってかまいませんが、決めるのがいけません。なんとなれば神様というのは、やっぱり悪いほうを利用するのです。それで自分の身魂を磨くとか、偉くなるとか、そういう磨きはみんな邪神がやるのです。邪神がその人を苦しめて、それでその人は磨けるのです。だから邪神というのは善人を作る砥石みたいなものです。正邪の戦いということも、ぜんぜん善人ばかりだったら、戦いもなにもないからおしまいです。ただ邪神に負けてはいけないのです。負ければ悪の世になるから勝たなければならないのです。ただいままでは邪神のほうが強かったために、かえって神様のほうが一時的でも負けるのです。それで不幸や災いがあるのです。今度は神様のほうが邪神より勝ってゆけばよいのです。だからミロクの世になっても、ぜんぜん悪がなくなるわけではないので、やはりあるのです。ただ神様のほうに負けるのです。しかし邪神というのはしつこいもので、負けても諦めるというのではなく、どこまでもやります。またそれが邪神としての役目なのです。そこでそういうことを考える必要もないくらいなものです。ただ邪神に負けなければよいのです。負けなければよいといっても、ただ勝とうと思っても、それは智慧によって負けたほうがよい場合もあるのですから、そういう場合は負けなければならないのです。だからいままでは邪神に負けても、最後に神様のほうが勝つという、みんな知っているとおり「邪は正に勝たず」で、結局は正が勝ちますが、いままでは邪神のほうが力があったから、負けている間が長かったのです。それがだんだんあべこべになってゆくのです。そしてあべこべになりきったときがミロクの世です。結論において邪神を恐れないことと、あの人は邪神だとか、あれはどうだと決めることがたいへんな間違いであるということで、それはつまり神様の領分を犯すことになります。

 いままでの小乗信仰では、他の宗教にちょっとでも触れてはいけないと言います。これはキリスト教、真宗などは特にそういうことが非常にやかましいのですが、それは弱いからなのです。自分のほうが力が薄くて危ないからして、触れるなと言うのです。ところが救世教はそういうことはぜんぜん言いません。むしろ他の宗教に触れてみたほうがよいです。救世教より以上のものがあれば、その宗教に行けばよいし、ぜんぜんなければ救世教一点張りにやればよいので、それが本当なのです。ですから既成宗教とはまるっきり違う点を心得ておかなければなりません。そうしてつまり邪神を改心させて正神にするというのが仕事なのですから、邪神を避けたらその邪神を良くすることはできません。私は前にキリスト教の牧師と議論したことがありますが、それは東京の教会で、「少しでも間違った人は教会の会員にしない、そうしてどこまでも教会の正浄を保つ」と言うのです。それで私は「そういう正浄な人だったら教会の必要はない、穢れた人がいるから教会の必要があるので、穢れた人を入れて正浄にするのが教会でしょう」と言うと、「それはおっしゃるとおりですが、私のほうの教会はそういうようになっているので、そうしなければならないので、そうやっている」と、はなはだ頼りない返事でしたが、しかしそういうのはキリスト教の中にはたくさんあります。ちょうどユネスコみたいなものです。いつか田付さんがフランス人を連れてきたことがありますが、そのときにユネスコの話が出て、だれかがユネスコの会員になったほうがよいと言うので、私がひやかしたことがあります。結局ソ連がユネスコにはいったら私もはいると言ったのです。ソ連の鉄のカーテン以外がみんな平和的になってもしようがありません。肝腎なことをほったらかしているのです。それと同じようで、きれいな人や正しい人の団体をいくら作ってもなんにもなりません。むしろ害になります。いつか『栄光』かに書いたことがありますが、鉄のカーテン以外がみんな平和的になったら、ソ連は大手をふって侵略するだろうと言ったことがあります。ですから邪神の入口だったら、なるだけ行ったほうがよいのです。喧嘩をしなくてもよいが、行けばよいのです。そうすれば光がはいりますから萎縮します。それにまた、あいつは悪い悪いと言いながら、なにか取得があります。ただその取得があるということの発見ができないのです。あいつは邪神だという人は、頭が決まってますから批判力がないのです。そういうことにぜんぜん囚われないと頭が働きますから、悪い奴にも取得があるということを発見します。それであいつはいけないとか、あれは悪いとか言ったことが、時がたつとあんがいそれがために助けられることがあります。それは実に微妙なもので、人間の表面で見たくらいではなかなか、特に御神業は深いのですから、決して分かるものではありません。

 なにか問題があったりしたときに、人を批判する場合には、両方を批判してゆくとよいです。悪いと決めないで、悪い点は悪い点で認識する必要はありますが、しかし悪い結果をよいほうの頭で考えたら、結果から言うとどうだろう、ということを考えてみるのです。そうするとあんがいよいことを発見するものです。一番大きな例としては、日本が戦争に負けないで、天皇制が続いて行って軍部がいばっているとすれば、救世教というものは、いまもって小さくなってビクビクして、いつなんどきやっつけられるか分からない、というようでいなければならないのです。ところが負けたために国家の組織が違ってしまって、信仰の自由ということになって、いろいろと思ったとおりのことをやれるようになったために、わずかの間にこれだけになったのですから、敗戦ということは、一時的には非常にガッカリもし、歎きもするが、少し時がたてばとんでもない結果になります。そうして救世教がだんだん日本を救うとすれば、日本人だってどれだけ幸福になるか分からないのですから、そうすれば敗戦というものは敗戦様々です。それから敗戦後ソ連が朝鮮侵略などをしたために、アメリカが「日本をあんまりひどくやっつけることはいけない、日本もそうとう助けなければならない」という気持ちになったのも、ソ連のためです。ソ連がおとなしくしていたら、アメリカは日本を窮屈に圧迫したに違いありません。ところが朝鮮戦争でああしてアメリカがあれほどに苦労させたために、日本を援助しなければいけない、援助しないと、中共あるいはソ連のほうに傾いたらたいへんだというので、日本を非常に大切にする緩和政策をとったということは、これはスターリンのお蔭です。そうすると歯ぎしりしたり興奮したりしたことは逆になったわけです。敗戦のときの日本人の悔しがり方というのはたいへんなもので、神も仏もあるものかというようでしたが、私はそれが分かっているから、敗戦の明くる日にごく親しい人にだけは、大いに祝うべきことだと言ったのです。これは大きなことですが、小さなことでも同じです。以前にある教会で、そこの信者で有力な人と会長とが仲違いをして離れてしまったのです。そうするとその離れた人、いわゆる弟子の人は、自分が会長と仲が悪くなって離れたということは神様にたいへん申し訳ないような気がするが、そう考えてよいのでしょうかと相談に来たので、結構ではないか、あなたが喧嘩したために一つの教会が二つに増えたではないか、もし仲がよかったら、いつまでも一つの教会ではないかと言ったのです。その別れた人は非常な発展をして立派な教会になりました。そうして元の会長の人はボヤボヤになってしまって、行方が分かりません。そういうこともあるのですから、あえて、しっくりゆくことがよいときもあるし、そういう仲違いをして結果がよいときもあるのです。そうなると人間の判断で決めることはできません。神様のほうでは、その教会を増やそうとする場合にわざとそういうような芝居をすることがよくあります。とにかく実に深いもので、とても分かるものではありません。人間的の判断をするのが一番危ないのです。また、正直でなければいけないと、それは結構です。しかしある場合には嘘をつかなければならないこともあります。というのは正直のために結果が悪いことと、嘘をついたために結果がよいことと両方ありますから、要するに結果なのです。結果ということは大局から見てです。そこですが、大乗信仰と小乗信仰の違うところです。大乗信仰というのは結果がよければよいので、小乗信仰は結果を見ないで、ただ正の判断のみでゆくのです。だからそういう考え方は一種の主観です。千変万化、融通無碍ということはそういうことなのです。決めてはいけないし、型を作ってはいけないのです。

 昔から信仰というと小乗信仰が多いので、ほとんど小乗信仰です。それで小乗信仰のために、つまらないことを心配したり、クヨクヨして地獄を作っているのです。小乗信仰というのは信仰地獄に陥るのです。天国というものは大乗です。苦しんだりいろいろすることは地獄に陥るのだから、つまり苦しまないことです。病人でもそうで、あの病人を助けなければならないと思うのは結構ですが、その心配のために地獄になります。この間も相談を受けたことがあります。精神病者ですが、どうしても助けたいと思っていろいろして、そのために気持ちが憂鬱になって、思案に余っていたわけです。それで私は「そんなことはわけない、すぐに病院に入れてしまったらよい」と言ったのです。それを病院に入れないで、どうしても治そうとするからです。そう言ったら、なんだか気がせいせいしましたと言ってました。というのは、つまりこの間も言ったとおり、救われる人と救われない人とが時節が進むに従ってだんだん決まってゆくのです。だから救われない人はかえって諦めたほうがよいです。そのためにかえって救うべき人が救われないということにもなります。だからいろいろなことが思うようにゆかなかったり、良くなったり悪くなったりする、というのは、救われない人だから諦めたほうがよいです。そういうのは医者にでも任して手を切るのです。そうしてスラスラとゆく人だけを助けるのがよいです。ところがまたそう決めてしまうとまた間違ってしまいます。そこのところは臨機応変にやることです。ある程度までは変化がありますが、原則をそこにおいておくのです。だからいつも言うとおり、楽しみながらやるようでなければ駄目だというのです。苦しみながらやるというのにロクなことはありません。ということは地獄だからです。できるだけ救うということは、一生懸命にやってある程度までゆけば、そこで決めてしまうというのがよいのです。どこまでも救おうとするから、そのためにかえって骨が折れるし、また救われない、霊界行きの人はしようがないのだから、そうすればこっちも楽です。これはちょっといけないなと思ったら、そこのところはうまくやって、ピタッと断らないで、恨みの残らないようにやるのですが、それも一つの智慧証覚がなかなかいります。そういうように言うと、小乗信仰の人はピタッと決めてしまいますが、それはいけません。好感を失わないようによく話をして、「とても私にはお助けすることはできない」と言って逃げるとよいです。そういうのに限って親戚とか夫婦なら片方が反対して「医者にかかれ、かかれ」と言うに違いないのですから、「これはなにしろ家中の人がみんな賛成しなければ、その想念が邪魔するから、お宅のほうで全部賛成して「ぜひ」と言うなら私はやってやるが、反対する間はその想念が邪魔するから、もう少し時節を待ちましょう」といったような具合でもよいでしょう。そういう理由はたくさんあります。またそういううまくゆかない人に限って反対があるものです。そうかといって家中揃ってすがる場含もありますが、それでもうまくゆかないのがあります。そういうのを逃げるのは難しいです。そのときの事情によってうまく考えるのです。つまりそれが智慧です。そういうのは結局原因は薬毒で、薬毒の多い結果です。そのために衰弱してゆくのです。「なにしろ薬毒が非常に多いのだから、それをとるまでに体がもたない。だからその覚悟をしたほうがよい。けれどもただ苦しみをできるだけなくしてアノ世行きになるなら御浄霊は結構でしょう。だからそのつもりでお医者にみてもらって、苦痛を軽くするという意味でみてあげる」と言うなら、どっちに行っても間違いありません。先方も、間違っても恨むことはありません。そういうようにやれば、こっちも別に心配にはなりません。信仰地獄に落ちることはないから気楽なものです。それからまたそういうようにしてやれば決して問題は起りません。問題の起るのは必ず請け合って逆にゆくというときに、その家のだれか反対者が、それみたことかと、それを投書したり、ひどいのになると警察に密告するということがあります。ですからいま言ったようにやるのが一番よいのです。これからだんだん浄化が強くなるに従って、治るのも悪くなるのもだんだん早くなりますから危ないのです。いままでなら、これはまだ大丈夫というのが、今後はいけないほうならいけないほうに早く行ってしまいますから、それを心得ていま言ったように要領よくやることです。話はそのくらいにして、質問にかかります。

「『御垂示録』二十三号、岡田茂吉全集講話篇第九巻p171~p178」 昭和28年08月01日