悪の追放

 悪とは何ぞや、言うまでもなく自己の利益の為に他人を脅(おど)かし、苦しめ、社会を毒する行をいうのである。この悪の為に、個人は固より社会全般に損害を与える事は、蓋(けだ)し大なるものがあろう。人事百般大なり小なり悪による被害者たらざる者は一人もあるまい。たとえてみれば盗賊を防ぐ為に空気の流通悪しきまでに窓を小さくし、厳重なる戸締りをなし、暑熱の候といえども入口や窓を閉め切りにし、外出をする際も留守に番人を置かねばならず、又うまい話を持込んでくれば詐欺ではないかと警戒し、何事も疑の眼をもって見なければならず、近所においての強窃盗の噂、新聞紙の記事等を見ては夜も枕を高くして寝る能わず、暗夜の一人歩き、特に婦女子の場合等は危険この上もない。汽車電車に乗ればスリに注意せねばならず、又使用人の中にもずるい奴があり、商店なれば万引の警戒に眼を放せない。これ等数え上げればほとんどずるい奴に取囲まれているようなもので、到底安心して生活出来得ないのが社会の現状である。「まだそれ所ではない、息子や娘が年頃になれば誘惑の危険や、妻女にしてみれば主人の遊興(ゆうぎょう)や二号などの心配、又主人にしてみれば妻女の貞操(ていそう)の不安、事業上予期しない悪の被害等もあり、警察裁判所等の防犯機関に要する国費の少なからざる事、商店会社等における店員や社員に対する防悪手段として堅牢なる土蔵を造り、金庫を設置し、必要以上の帳簿、伝票、受取等を作り、一々の捺印等、それ等に要する多数の人員や、工場における原料窃取の警戒、製品の蔵出しの際や金銭の払出等に対する不正の防止、製品の不合格、怠業や悪質ストの防止、又資本家の度を超えたる利潤獲得等々も、悪が原因になっていないものはないのである。

 又役人の「五セル」も今日はほとんど公然と行われているという事である。学校に入学するにも金銭の高によって成功不成功があるやに聞いている。官庁の許可もうち面工作をしなければいつになっても下りて来ないとの話である。その他各方面に渉って公正が行われる事はすこぶる寥々(りょうりょう)たる有様で、世を挙げて闇、ヤミ、暗に依らなければ生存さえ不可能と思うほどの実情は誰も知るところであろう。

 このように見てくるとこの世の中を善と悪とに立別ける時、善より悪の力が何倍多いかわからないであろう。ゆえに悪の為の被害や損害、不安等、数え上げれば個人及び社会が蒙る損失はいかに莫大であるか計算は出来得ないほどであろう。ゆえに文化の進歩も、新日本の建設も、悪の多寡によって決定さるべき事はもちろんである。これにおいて私は思う。あらゆる問題も、成功不成功も善悪の量による事で、この意味において為政者も、教育者も、知識人も、世を挙げて悪を減滅する事に専念すべきで、それ以外に良法のない事を私は断言して憚らないのである。しからばその良法とは何ぞや。言うまでもなく正しき信仰である。

「信仰雑話」 昭和23年09月21日

信仰雑話